更新日:2013/07/10 15:43
寺院に参拝するときに、あまり注目することなく通りすぎてしまうかも知れないが、金閣寺の参道は他のお寺と比べると段違いに広い。
同じ足利将軍の元別荘からお寺に変更されているということで、とかく「銀閣寺」と比較される金閣寺だが、建物どころか参道からして全く違う雰囲気を漂わせていることがわかる。
銀閣寺が完全に「趣味の館」であるのに対して金閣寺は日本国の代表として明国からの使者を招く迎賓館として建てられており、天皇の御幸や諸国の大名を招くなど、幅広く使われてきた。
ドーン!と池ごしに臨む「金閣舎利殿」
三階建ての楼閣だがそれぞれの階で建築様式が異なる。
初層の「法水院(ほっすいいん)」は寝殿造り風
二層の「潮音洞(ちょうおんどう)」は書院造り
三層の「究竟頂(くっきょうちょう)」は禅宗様式となる。
初層に金箔が貼られていないのは「寝殿造り」といって平安時代の高級貴族の住居建築風の様式で建てられているため、外壁は塗籠(ぬりごめ)となり、柱と漆喰(しっくい)のモノトーンとなる。
予算が無かったわけではない。
二代将軍である父・足利義詮の死後、わずか11歳で将軍職に就いた義満は長年にわたる戦乱ですっかり荒れ果てた農地や疲弊した民衆を憂い、日本国を豊かにするため、「明」との国交を正式に復活させようと立ち上がった。
しかし大国である明からすれば日本の将軍などは国の代表と認められず二度にわたって遣わした使者も門前払いされてしまう。
それに負けじと義満は南北朝の統一をはじめ、名だたる守護大名を押さえこみ数々の功績をあげることで、ついには「太政大臣」にまで上りつめた。
1397年金閣を造営し将軍職を息子の義持にゆずり、一人の男「准三后源道義」として最後の使者を送ったのである。
そしてその翌年1402年9月、明の皇帝「建文帝」の使者が金閣にやってきた。その国書には「日本国王 源道義」と記されていた。
メディアやインターネットが普及する現代でも、海外からの使者達は目の前の金閣の輝きに魅了されている。
金閣寺の方丈の北側にあるこの松は「陸舟の松(りくしゅうのまつ)」と名付けられており、京都三大松の1つに数えられる樹齢600年を超える五葉松である。
元々は義満公が盆栽として大事に育てていたが、彼の死後土に植えられて今に至るとされる。
帆掛け船のように剪定され西向きであることから「まるで極楽浄土をめざすかのよう」とも…。
何度も戦火に焼かれた京都で、足利義満のことを知っている生き証人として、非常に貴重な存在である。
これは「龍門瀑(りゅうもんばく)」という滝である。
上から激しく落ちてくる滝の水に逆らうように、鯉が上っていく姿を造景している。
中国の伝説に「鯉は滝を飛び越えると龍になる」というものがあり、難関を突破した者が立身出世できるといわれ「登竜門」という使い方もされている。
南北朝時代の動乱の中、足利義満は11歳で将軍になり、天皇家を一つに統一、武家社会もまとめ上げ46歳で明との国交を正式に結び日本を再生させた。
50歳で亡くなるまでの彼の生涯はまさにこの滝にうたれる鯉の如きものだったのではないだろうか。
その後550年余り残った金閣も昭和25年に焼失。しかし日本全国から集まった寄付のおかげで5年後に奇跡の復活をとげたのである。
これもまた義満公の不屈の魂のおかげかもしれない。
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