檜隈大内陵は「ひのくまのおおうちのみささぎ」と読みます。宮内庁により第40代天武天皇・第41第持統天皇陵と治定とされているこの場所ですが、日本書紀に大内陵と記されていることが関係しています。檜隈大内陵が正式名称ですが、一般的には天武・持統天皇陵で認識されています。
数ある陵の中で歴史的経緯から両天皇の陵であることが確実となっています。
ところで陵を日本遺産と認定した制度ですが「文化庁」が所管するものです。有形、無形の様々なものを国内だけではなく世界に発信し、より地域の活性化が進むようにと設けられたものです。
石段を上がっての陵となります。ここは東西約68メートル、南北は約45メートル、高さ9メートルの円墳状となっています。
古墳は八角形となっており内部は二室に分かれていて、そこが墓室となっていました。残念ながら後に盗掘によって荒らされてしまいました。
墳丘から見下ろすこの風景を、約1300年前の持統天皇もご覧になられたのではないのでしょうか。なぜなら686年(朱鳥元年)に崩御された天武天皇のために築かれたのがこの場所だからです。その後、702年(大宝2年)に持統天皇が崩御され、天皇として初めての火葬の後、合葬されたのです。
見晴らしが良く、古代の雰囲気さえ感じられるこの地で、周囲を眺めてみましょう。
天武天皇で有名なものは日本最大の内乱といわれる壬申の乱です。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟であった大海人皇子が戦いを挑みました。その結果、大海人皇子が勝利し天皇として即位します。この戦いを支え続けたのが後の持統天皇なのです。
日本最古の歴史書とされる古事記ですが、天武天皇の命により稗田阿礼が暗唱していた内容を太安萬侶が編纂。三巻にまとめた後、献上された書物です(諸説有)。既に原本は無いのですが、真福寺(愛知県名古屋市中区大須の真言宗智山派別格本山。現大須観音)において僧・賢瑜によって1371年から翌年にかけて写された写本が最古とされ、国宝に指定されています。
三重県の伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮ですが、これは天武天皇のご発意であり、第一回目は持統天皇によって行われました。西暦690年(持統天皇4年)のことです。これが現在まで続いているのです。
天武天皇は中央集権国家の確立に尽力し、その支えとして持統天皇がいたとされています。持統天皇は天武天皇亡き後、藤原京の造営を行っています。
奈良県橿原市にあった藤原京は690年(持統天皇4年)に造営が開始され、わずか4年後に飛鳥浄御原宮から遷都したと資料に残されています。ところで最近の研究によると天武天皇の時代である676年に建設は始まっていたとされますが、いずれにしましても最初に住まわれたのは持統天皇なのです。
陵の場所ですが藤原宮の南方に位置し、さらには中軸線上となっています(故岸俊男・京都大学名誉教授による指摘)。中軸線上という重要な場所を選んだということは、とても深い意味があったことは間違いありません。
この地に深い意味を持たせているであろう古代の人々に、思いを馳せてみて下さい。
野口王墓は奈良県明日香村の有名観光地として、日本の古代を巡る旅では外せない場所です。中でも天皇がご夫婦で合葬されたこの場所は、単に歴史の旅だけではありません。
天武天皇は深く妻を信頼し、持統天皇は夫を支え、夫亡き後は自ら治世を行い、日本の歴史に大きな役割を果たしました。
日本遺産である見晴らしのよい八角墳の天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、深いご夫婦の愛と絆を後世に伝える場所と言えるのです。
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(2024/10/6更新)
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