写真:乾口 達司
地図を見る石上神宮は、近鉄およびJR天理駅より、東南へ徒歩40分のところに位置しています。主祭神は布都御魂剣と呼ばれる神剣です。ほかにも、4世紀後半、百済で作られ、当時の倭王に贈られたとされる国宝・七支刀をはじめ、古代の武器や武具類を伝えていること、ヤマト王権の武門をつかさどった物部氏が祭主をつとめて来たことなどから、古代には、ヤマト王権の武器庫が置かれていたのではないかともいわれています。
境内を奥へ進むと、左手に大きな楼門が見えて来ます。棟木から1318年(文保2)に建立されたことが判明しており、国の重要文化財に指定されています。中世の建造物ではありますが、屋根の反りが両手を大きく広げているかのようで、古代より神域を守って来たかのような堂々たる威厳が感じられます。
写真:乾口 達司
地図を見る楼門をくぐると、目の前に現れるのが、国宝に指定された拝殿です。社伝によると、1081年(永保1)、白河天皇によって寄進された宮中の神嘉殿であるとのこと。その規模は、正面七間・側面四間と大きく、神社の拝殿ではありますが、大きな仏堂を彷彿させる建造物です。
現在、拝殿の奥には本殿が建てられています。しかし、近代以前、そこは禁足地としていかなる建物も建てられませんでした。1874年(明治7)、当時の大宮司・菅政友が、禁足地の発掘をおこないます。その結果、地面の下から布都御魂剣をはじめ、数多くの神宝類が出土し、禁足地に神宝が埋められているという言い伝えが証明されました。本殿は、出土した布都御魂剣を奉斎するため、大正年間に建立されました。
写真:乾口 達司
地図を見る現在、拝殿脇の格子の隙間から、禁足地の様子をうかがうことが出来ます。東西44.5メートル、南北29.5メートルからなる禁足地は樹木の生い茂る平坦地で、ご覧のように、石上神宮の古称である「布留社」と刻まれた瑞垣によって、とりかこまれています。瑞垣の先端が剣のように鋭くとがっていることに、注意してください。さすがは剣と関わりの深い神社ですね。
『日本後記』には、804年(延暦23)、石上神宮の所有する武器類を山城国に運び出す詔がくだり、その搬出作業に、延べ15万7千人余りが動員されたと記されています。武器類は禁足地に埋葬されていたのでしょうか。動員数から推察して、当時の石上神宮が、驚くほど多くの武器・武具類を所有していたことがうかがえます。ヤマト王権の武器庫であったという説も、うなずけますね。
石上神宮のなかでも、特に古代史マニア、必見のスポットです。
写真:乾口 達司
地図を見る楼門の向かいに、小高い丘があります。丘の上には、摂社の出雲武雄神社が鎮座しており、その正面に、写真の拝殿が保存されています。もとは、石上神宮の南方にあった内山永久寺の鎮守社・住吉社の拝殿でしたが、明治初年代の廃仏毀釈によって内山永久寺が廃絶した後、現在の地に移されました。
鎌倉時代の建造物で、中央には馬道と呼ばれる通路が設けられています。このような形式の拝殿を「割拝殿」と呼びます。いまでは跡形もなく廃絶してしまった内山永久寺のかつて隆盛を伝える貴重な遺構として、国宝に指定されています。
写真:乾口 達司
地図を見る古来、鶏は神鶏と称され、神の使いであるとされていました。石上神宮では、現在、数十羽の神鶏が境内で放し飼いにされており、隣接する民家や田畑にまで遠征している様子も、しばしば見かけます。物蔭から急に飛び出して来ることもあるので、はじめて参拝される方は、お気をつけ下さい。
ほかにも、境内の鏡池には、奈良県指定の天然記念物で、後醍醐天皇ともゆかりの深いワタカ(馬魚)が棲息しています。桜の季節には、神宮外苑公園や境内の前を通る県道51号線の両脇に植えられた桜並木が、花見客の目を楽しませてくれます。
深い森をたたえた神域を思いのまま散策するだけでも、心が洗われることでしょう。それぞれの目的にあわせて、日本屈指の古社・石上神宮に参拝することをおすすめします。
メモ
拝観料 : 境内自由
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2023/12/8更新)
- 広告 -