櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)本殿の脇障子に彫刻されています。なぜ河童がいるのでしょう。
ここに面白い伝説があります。日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎が依頼を受け、八幡宮造営にやって来ました。建築の過程で間違って柱を切ってしまい、柱を川に捨てようとしました。するとこの柱が「やめてくれ」と訴えます。
それに対して左甚五郎は「うるさい、ケツでも食らえ!」と言い、川に投げ込みます。これが河童となり人や馬を襲うようになります。この地では河童をメドツと呼んでいました。悪さをするのに困った村人が八幡様に祈願をします。すると鷹が現れ、メドツを懲らしめたのです。
逃げようとするメドツを爪で押さえつける鷹により、メドツの頭部は禿げたと言われます。押さえつけられているメドツですが、旧暦の七月七日からの十日間だけは、自由にさせてもらったそうです。
その押さえられている様子が神社の本殿の脇障子に彫刻されているのです。今では欠けた部分もありますが、神社の中でも極めて珍しいものです。肉眼では距離があるのでなかなか見つけられませんが、近くには説明文と写真が掲示してありますのでじっくりとご覧ください。
他にも河童を見られる場所があります。これは彫刻ではありませんが、境内をよく見ていると見つけられますので、ぜひ、探して見て下さい。
櫛引八幡宮の正面右手に国宝館があります。ここに白糸威褄取鎧と赤糸威鎧「菊一文字」の二つの国宝が展示されており、誰でも見ることが出来ます。
白糸威褄取鎧は南北朝時代、当地を治めていたのは南部氏です。その分家であった八戸根城南部氏の第七代当主、南部信光が第九十七代、後村上天皇から拝領したものと伝えられている南北時代の兜です。
赤糸威鎧「菊一文字」は同じく南北朝時代ですが、第九十八代、長慶天皇からの拝領と伝えられています。
他にも試着用の鎧を体験することが出来るので、武将の雰囲気を楽しむことが出来ます。ぜひ、こちらも楽しんで下さい。
南部氏は甲斐の国、今の山梨県南巨摩郡南部町から出ています。なぜこの地に来たのかですが、源頼朝による奥州藤原氏との戦いにおいて、戦果を残した恩賞として頼朝から拝領したとされています。
当初、青森県三戸郡三戸町に住みました。その後、分家を繰り返し、青森県と岩手県に分かれながら鎌倉時代から明治になるまで続いたのです。
青森県が山梨県と古い昔に繋がっていたことは、青森でもあまり知られていません。古い歴史を持つ当地ですので、訪れた際には鎌倉時代からの歴史を持つことを、ぜひ思いだして下さい。
櫛引八幡宮は南部光行が甲斐の南部から八幡大明神を滝ノ沢村に勧請しました(諸説有り)。その後、1222年、神託により四戸の櫛引村を社地と定め、それが現在地とされています。
その他、岩手県北部から青森県の南部地方にかけて一戸から九戸と言われる地域がありますが、現在では四戸はありません。なぜ四戸が無いのかという疑問を聞くことがありますが、日本では四は不吉と言われることがありますので、その数字を避けたからと言われています。
山梨県と繋がる鎌倉時代からの長い歴史があり、左甚五郎の河童伝説を持ち、南北朝時代の国宝を収蔵し、南部藩の一の宮である青森県八戸市の櫛引八幡宮。
他にも境内に目の病に抜群の効果があるとされる三頭木があります。古来より三頭木は神が宿る木とされ、大事にされてきました。三頭木は、街中ではなかなか見られなくなりましたので、これも貴重なものなのです。
近隣では一番大きな神社であり、年末年始はもちろんのこと、1年を通して多くの参拝者で賑わいます。この機会に、青森県八戸市の櫛引八幡宮に参拝してみてはいかがでしょうか。
なお、近辺には国宝の縄文・合掌土偶がある「是川縄文館」、200万本の大迫力のひまわり畑がある「山の楽校」、天然芝生がとても珍しい「種差海岸」があります。関連MEMOをご覧のうえ、ぜひ、足を運んでみて下さい。
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(2023/12/3更新)
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