真田幸村の抜け穴がある三光神社と夢破れた終焉の地・安居神社を巡ろう

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真田幸村の抜け穴がある三光神社と夢破れた終焉の地・安居神社を巡ろう

真田幸村の抜け穴がある三光神社と夢破れた終焉の地・安居神社を巡ろう

更新日:2018/06/18 12:59

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 旅する写真家、旅作家

真田幸村(信繁)は江戸の昔から智勇優れた武将として様々に取り上げられ、時代が変わっても映画、ドラマ、小説にもなり続けている戦国のスーパーヒーロー。大河ドラマ「真田丸」の主人公ともなり大人気となりました。

その激しくも美しい生き方に迫りながら、幸村が築き鉄壁の守りであった大阪の真田山にある抜け穴伝説の三光神社と、同じく大阪で徳川家康を追撃もついに力尽きた終焉の地、安居神社の二つをご紹介します。

真田山・三光神社とは

真田山・三光神社とは

写真:大里 康正

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三光神社は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園内にある神社です。大阪環状線の玉造駅から300mほどの場所にあります。

創建は第18代、反正天皇の時代と言われ、武内宿禰の末裔が代々神職を継承して来たとされます。三光の由来は天照大神、月読尊、素戔嗚尊の神々を祀っているからです。

大阪城の東南に位置し、この辺りが「真田丸」と言われた場所です。徳川家康との戦いで籠城論が主流だった豊臣方という状況で、真田幸村が大阪城の出城として陣を張りました。現在、この付近は真田山と呼ばれています。なぜここなのかですが、城の守りとして脆弱だったからと言われています。

真田幸村が重要と判断し、徳川軍を苦しめた場所は実際に訪れてみる価値があります。なお、以降は世に知られる幸村ではなく、本来の「信繁」に統一します。

真田の抜け穴跡

真田の抜け穴跡

写真:大里 康正

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三光神社で興味深いのは、真田の抜け穴と呼ばれる場所があることです。真田信繁が大阪城までの地下道を掘ったというのです。抜け穴は神社の真下を通っているとされますが、拝殿のすぐ近くにあり簡単に見つけることが出来ます。

和歌山県の九度山は関ヶ原の戦いで石田三成軍側であった真田昌幸、信繁親子が蟄居させられた場所です。こちらにも抜け穴と呼ばれるものが存在しています。

また、長野県の上田城、群馬県の沼田城にも真田井戸があり、抜け道になっているとされています。これらは興味深いことです。真田十勇士の人気者であった忍術を使う猿飛佐助の影響かも知れませんが、このような穴は実在しています。

抜け穴の真偽はともかく、真田丸が築かれた三光神社は信繁に関して重要な場所であることは、様々な歴史的検証からも間違いありません。

安居神社を訪ねる

安居神社を訪ねる

写真:大里 康正

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大阪府大阪市天王寺区にある安居神社は真田信繁終焉の地で、ファンが多く訪れる場所です。

安居神社へは三光神社近くの玉造駅から同じ大阪環状線を使って天王寺駅で下車。ここから徳川軍と戦うために陣取った茶臼山を通って訪れることが出来ます。

祭神は少彦名神と菅原道真で創建は定かではありませんが、古いものと伝えられています。

大阪冬の陣で徳川家康は豊臣に対し和睦案を出します。信繁は反対しましたが結局受け入れられました。その後、大阪城の堀は埋められ、強固だった真田丸は壊されてしまいました。

やがて大阪夏の陣が始まりますが、真田丸は壊され、もはや勝つ見込みの無い夏の陣です。そこで信繁は正面からの戦いを選び、現在の大阪市天王寺区茶臼山町にある茶臼山に陣取ることになります。

徳川本陣を目指した真田軍により、家康や家臣は旗さえ投げ出して逃げ、追撃する真田軍にもう限界だと家康は死を覚悟したと言われます。

しかし人数の多い徳川軍と、援軍が無かった真田軍という状況で徳川軍はギリギリのところで盛り返します。追撃してきた真田軍ですが、信繁に最後まで従ったのは3人だけと言われた状況の中、ここで最後を迎えることになりました。

終焉の地・安居神社で、真田信繁は何を思っていたのでしょう。

旅のために真田を知る

旅のために真田を知る

写真:大里 康正

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真田家の動きについて触れます。背景を知ることで、一層楽しい旅にしてもらえれば幸いです。

天正10年(1582年)、武田勝頼は天目山で織田信長、徳川家康連合軍に敗れ、武田家は滅亡しました。武田家の家臣であった上州上田の真田昌幸(信繁の父)は、徳川家康の呼び掛けに応じ、徳川家に従うことになりました。

天正12年、徳川家康は北条氏直と戦っていましたが、家康と氏直は和睦となります。この時の内容は真田としては認められないものでした。真田の拠点である上州の沼田を北条に渡す条件が入っていたからです。こうして真田昌幸は徳川家康と決別します。

翌年、家康は真田を攻めるため軍勢を出します。しかし真田昌幸は長男の信幸と次男の信繁とともに徹底抗戦し、撃退しています。

その後、長男の信幸は徳川方になりました。以後、徳川と豊臣に分かれることになりますが、真田家は親子、兄弟であっても家を守るためには大きな二つの陣営に分かれるという厳しい選択をしたのです。

豊臣側であった真田信繁は負けましたが、徳川側の真田信幸により真田家はその後も存続出来たのです。

真田信繁の真田丸「三光神社」と最後の地「安居神社」で知る激闘の跡

真田信繁は損得勘定、または利欲ではなく信義を貫き、敵に臆することなく戦い続けた生涯を送りました。最後には徳川家康も認めた智勇を兼ね備えた武将。

没後も多くの人がその生き方を称え、様々な形で取り上げ続けられてきました。戦国武将の中でも異彩を放つ存在です。

この機会に抜け穴がある「三光神社」と夢破れた最後の地「安居神社」に、訪れてみてはいかがでしょうか。

この記事の関連MEMO

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/04/11 訪問

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