この地に真田の城があった当時、圧倒的な人数の徳川軍の猛攻を二度も凌いだのが真田昌幸、幸村親子です。その見事な戦い方からやがて智恵の神様であり主祭神として崇められるのが真田幸村です。
眞田神社は徳川体制である江戸時代になると仙石氏、松平氏と城主は変わっていきますが、いずれも民政に尽くしたということで祭神とされています。
後に幸村で有名になる昌幸の次男ですが、本名は信繁と言います。これからは幸村を正式な信繁で統一して記載します。
2016年の大河ドラマ「真田丸」は堺雅人が主人公の真田信繁を演じて大人気となりました。放映中から続々と参拝者が多くなって赤備え兜守、必勝守、勝よせ守等が人気となり、他にも「眞田神社」限定、季節限定の御朱印帳は今でも人気があるのです。
大阪の陣で兜を朱色で統一したのが真田信繁です。そして目を引く六連銭(六文銭)。この六連銭と鮮やかな朱色が真田の印象を強める一つの要因と考えます。境内の赤備え兜は大きさ2mを超えている巨大なもので大迫力!一見の価値があります。
眞田神社の左側奥に井戸がありすぐに見つけることが出来ます。この井戸には抜け穴があり、そこから城の北側にある太郎山麓の砦に通じていて、ここを使って兵糧を運び入れる、兵士が出入りしていたと言われています。
知将・真田信繁ですから、どのような策や備えがあるか分からない。そのような話から真田に関係する場所には大抵、真田井戸の話が出てきます。果たしてその真偽とは。
この場所が真田信繁についてどれだけ重要であるのかを説明するために、徳川軍との二度に亘る戦いに触れます。
天正13年(1585年)に徳川軍が7000人を超える大軍で上田城に襲い掛かりました。この際、真田は2000人にも満たない人数で迎え討ち、撃退しています。
二度目の攻防は慶長5年(1600年)の有名な関ヶ原の戦いです。徳川家康と石田三成が東西に分かれて戦いましたが、上田城の昌幸と次男の信繁は石田側でした。
徳川秀忠軍が、先の戦いとはケタ違いの38000人で戦いを仕掛けてきますが、真田は2500人で城に立てこもり、秀忠軍を7日間、足止めにしました。関ヶ原の戦いに間に合わなかった秀忠は家康から激怒されています。
しかしながら足止めの成果もむなしく、負けた石田三成側であったため、和歌山県の高野山に近い九度山に蟄居させられました。
その後、大阪の陣では徳川家康を震え上がらせ、日本一の智勇優れた武将と称えられるようになります。
上田の攻防、大阪の陣で味方が極端に少ない状況にも関わらず、それを凌いできたのは信繁の見事な采配があったからです。眞田神社にて智恵の神となった理由がよく分かります。
「眞田神社」で見ごたえのある境内の巨大な兜や、興味が尽きない真田井戸。真田信繁が居住した場所にあるパワースポット「眞田神社」に参拝して、智恵の恩恵を受けてみては。
真田の六連銭赤備え兜も今ではお守りとなり、他にも不落城合格守等も人気です。また、独特のカバーデザインである御朱印帳は限定品となるため、見かけたら入手しておきましょう。
そしてぜひとも上田城跡に足を運び、徳川軍との攻防の歴史に思いを馳せ、時代の大きな流れを感じてみてはいかがでしょうか。
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(2024/11/6更新)
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