写真:いなもと かおり
地図を見る新府城の大手口には、武田氏築城技術の特徴でもある「丸馬出(まるうまだし)」の遺構が残ります。丸馬出の外側は三日月型に掘られた空堀があり、敵の侵入をさらに拒みます。土の壁は高く登ることは困難で、登ろうにも横から矢が降ってくる。攻め手の戦意を喪失させるような仕掛けです。
大河ドラマのタイトルでもある「真田丸」は、真田信繁(幸村)が大坂城の南側に築いた出城のことを指します。規模は異なるものの、真田丸の形状には武田氏築城技術の特徴といわれる「丸馬出」が取り入れられているのではないかといわれています(諸説あり)。
※馬出…虎口(出入口)の守りを固めるために曲輪を築き、土塁や堀などで防御力を高めたもの
※丸馬出…上記が半円状になったもの
真田氏は武田氏の家臣でした。
真相はわかりませんが、もしかしたら信繁はこの「丸馬出」からヒントを得て真田丸を築いたのかもしれないと考えると面白いですね。
写真:いなもと かおり
地図を見る釜無川を直下に見下ろす断崖の独立丘陵に築かれた、武田氏の集大成となる城です。大河ドラマ『真田丸』でも写真のような城下の風景を見ていましたね。
武田信玄亡き跡を継いだ勝頼の命により、1581(天正9)年に信繁の父である真田昌幸が「新府城」を完成させました。といっても、廃城に至るまで完成を見ることはなかった未完成の城といわれています。
時は戦国。勝頼は織田・徳川連合軍や後北条氏との戦が勃発しているさなかの同年12月に本拠地だった「躑躅ヶ崎館」から移転します。しかし、翌1582(天正10)年1月に家臣の木曽義昌が謀反を起こし、その隙に織田軍が武田氏の領地に侵攻してきました。追いつめられた勝頼は3月3日新府城に火を放ち逃亡。その後自害し武田氏は滅亡しました。
勝頼は完成した新府城に1〜2ヶ月ほどしか在城することができなかったのです。そのため「悲運の城」ともいわれ悲しいエピソードの残る城です。
写真:いなもと かおり
地図を見る1973年に国の史跡指定された新府城跡。近年は整備も進み巡りやすくなりました。構築物などは現存しておりませんが、土塁(土を盛った防御壁)や空堀、曲輪(城を構成する区画)などの遺構が見事に残っています。
新府城北面には堀に張り出した2つの「出構え」と呼ばれる遺構があります。堀を渡ろうとする敵兵を打つための鉄砲陣地といわれておりますが、水を塞き止めるためのダムという説もあります。他の城にはあまり類を見ない珍しい遺構です。
写真:いなもと かおり
地図を見る水堀・空堀と土塁で固めた搦手口の馬出曲輪は強固な造りとなっています。
写真の土塁は直線でなはく曲がっているのがわかるでしょうか?
折れた土塁は「横矢掛かり」といって、線を屈曲させることによって攻め手の兵に対して側面から攻撃をする工夫です。
この「横矢掛かり」が多く取り入れられているのが新府城の特徴のひとつとなっているので、探してみてください。
写真:いなもと かおり
地図を見るかつて本丸があった場所は現在、新府守護神の藤武神社が建っています。
新府城築城時は、稲荷曲輪に祀られていましたが落城により焼失してしまいました。しかし、徳川家康の尊崇あつく平岩七之助に命じて再建されました。藤武神と稲荷神が同殿に鎮座しています。
本丸跡までは数百段に及ぶ階段を登らなければなりません。敵を阻む施設=城だということがよくわかりますね。撮影ロケはこちらの参道の石段で行っていたようなので、是非登ってみて下さい!遠回りになってしまいますが、階段が辛い方には緩やかな道を進むことをオススメします。
真田氏が仕えた武田氏は築城の名手で難攻不落の堅固な城を生みだしてきました。その築城は新府城を最後に途絶えてしまいますが、武田氏のもとでその術を学んだ真田昌幸は、子の信繁に跡を託したのかもしれません。真相は歴史の渦の中ですが、歴史は繋がっていると感じさせてくれる史跡です。
NHK大河ドラマ『真田丸』のロケ地として人気に火がつく予感がする「新府城」!是非訪れてみてください。
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(2023/11/29更新)
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