地下鉄1号線の「釜山駅」駅から西面(ソミョン)方面に4駅。
凡一(ポミル)という駅があります。
ここから徒歩10分ほどのところに子城台(チャソンデ)公園があります。
公園に隣接するように建てられているのが「朝鮮通信使歴史館」です。
ちなみに現在公園となっている子城台、昔はこのそばまで海が迫っていました。
そして李氏朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)から陸路・釜山までやってきた通信使は、ここから船に乗って日本へ向かったといわれます。
その場所に建てられたのが「朝鮮通信使歴史館」なのです。
営業時間は9時から18時まで。
毎週月曜日と1月1日以外は、開館しています。
なお、入館料は不要。つまり無料なのです。
朝鮮通信使歴史館の建物は2階建て。
中に入ってみると、ややこぢんまりとした印象です。
でも、あなどってはいけません。
まずはアニメコーナーへ進みましょう。
ここでは朝鮮通信使がなぜ派遣されるようになったか、を短いアニメで学べます。
ナレーションは韓国語、字幕もハングル文字。
ですが、画像のようにところどころ漢字が挿入されていますし、アニメなので事情はだいたい把握できるようになっています。
1階にはこのほか、通信使関係の展示が行われていますが、こちらには日本語の解説も付いており、理解が深められます。
ハングル文字はちんぷんかんぷん・・・という人でも、これなら安心です。
それでは2階に上がりましょう。
この歴史館、2階こそがハイライトといっても過言ではありません。
階段を登り切ったところにスクリーンがあります。
なんの変哲もないスクリーンですが、その前に立ってみましょう。
すると、朝鮮通信使が日本にやってきた船などにまつわるアニメーションが流れ始めます。
しかも今度は日本語のナレーションで。
日本語のほかに韓国語、中国語、英語で順々にナレーションが流れます。
このスクリーンのそばには朝鮮通信使の船や、通信使が来航した際の日本の港での歓待風景が再現された模型があります。
見ているだけで、当時の様子がまざまざと脳裏によみがえってきます。
2階にはタッチパネルのコーナーもあります。
言語は日本語を選び、画面をタッチすると・・・。
画像では朝鮮通信使をもてなした食事のメニューが表示されています。
このようにビジュアルで見ると、自分が通信使の一行になった気分になれます。
タッチパネルでは食べ物のほかに、朝鮮通信使の来日によってもたらされた医学、絵画や詩などの文化、そして両国の交流に尽力した人物などの紹介が行われます。
画面に触るだけで、これまであまり知らなかった江戸時代の交流について、たくさんの知識を得ることができるんです。
2階では李氏朝鮮の首都・漢城から徳川将軍のいる江戸までの行程も再現されています。
まずは中央部にある日本と朝鮮半島のジオラマを見てみましょう。
漢城を出た一行は釜山のまさにこの場所から船に乗り、対馬や下関をへて瀬戸内海を東に向かって航海。
大阪で上陸した一行は、次に陸路で江戸へ向かっています。
こうしたジオラマによる展示は、さほど珍しいものではありませんが、その奥にある屏風絵に注目してみましょう。
こちらは朝鮮通信使が江戸入りした際を描いたものです。
しかしここにあるのはCGです。
こちらの前に立ってみましょう。
すると、通信使が奏でたであろう音楽が流れると同時に、絵の中の通信使の行列が動き始めるのです。
江戸っ子にとって、朝鮮通信使の江戸入りは大きな楽しみだったそうです。
江戸時代といえば鎖国が行われ、異国との行き来が厳しく制限されていました。
だから、当時の人たちにとって通信使の来日は、異国の人たちや珍しい風習を目の当たりにできる、人生でも一度あるかないかの一大イベントだったんです。
そして通信使の行く先々では、その文化を取り入れたいという好奇心を持った人たちが、彼らのもとへわれもわれもとはせ参じたという記録も。
2002年のサッカー・ワールドカップ日韓共催大会をきっかけに、日本では「韓流ブーム」が沸き起こったことは、まだまだ記憶に新しいところです。
しかしその300年以上も昔、すでに日本では「江戸時代の韓流ブーム」が盛り上がっていたんですね。
朝鮮通信使歴史館の見学が終わったら、隣の子城台公園にも足を伸ばしてみましょう。
この子城台、実は「倭城」と呼ばれるお城の跡なんです。
倭城とは豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略しようとして起こした「文禄・慶長の役」の際に、戦略の根拠地の確保、連絡の拠点、攻撃への防衛のために築造された城のこと
釜山近隣にはこのような倭城の跡が全部で30もあるそうです。
秀吉軍が陥落させた後、毛利輝元がここに築き上げたものが子城台です。
公園内には今でも日本のお城に見られるような石垣のあとがあちこちに見られます。
こうした石垣は、貴重な歴史の遺産。
この石垣を見ることで、倭城から戦国期に発展した日本の築城技術を知ることができます。
先にも述べたように、この子城台のそばには海が迫っており、朝鮮通信使が日本に渡る船が出発した場所でした。
その後、朝鮮通信使は1811年を最後に途絶え、その約60年後には徳川の時代も終わります。
明治になると日本と李氏朝鮮の関係は暗転し、1910年に日本が朝鮮半島を植民地化します。
その時代に子城台付近の海は埋め立てられ、通信使の出発した場所も原形をとどめなくなってしまいました。
そんな日本と朝鮮半島の歴史秘話を持つ子城台公園。
現在は市民が健康のために使用する遊具が備え付けられ、トレーニングやウォーキングをする人たちの憩いの場となっています。
これまでの公園の歩みを頭に入れて歩いてみると、なかなか深い歴史ウォークになるでしょう。
ここ数年、日本と韓国の関係はギクシャクしていました。
しかし2015年末に行われた日韓外相会談で、両国の関係が好転する兆しが見えてきました。
豊臣秀吉の朝鮮出兵が失敗に終わったあと、徳川家康が李氏朝鮮との関係修復にとりくんだ400年前と、ちょっと状況は似ている気がしないでもありません。
そういう時代だからこそ、江戸時代250年の長きにわたって両国の友好に寄与する役割を果たした朝鮮通信使は、ますます見直されていくはずです。
実は、「朝鮮通信使」の関連史料について、日韓の団体が2016年3月、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に対し、世界記憶遺産への登録を共同申請することになっています。
申請するのは当時交わされた文書や絵巻物など約300点で、2017年の登録をめざします。
いまは訪れる人もそれほど多くなく、それだからこそじっくりと見学できる朝鮮通信使歴史館。
2017年に世界記憶遺産に登録されたら、おおぜいの訪問客で賑わうようになるかもしれませんね。
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(2025/1/18更新)
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