写真:古都の U助
地図を見る京都市東山区にある方広寺は、豊臣秀吉によって創建された寺院です。
この方広寺には奈良の大仏よりも一周り大きな大仏が製作されましたが、ほぼ完成するもその直後の文禄5年(1596年)発生した慶長伏見地震により、大仏は倒壊してしまいました。
その後秀吉の実子・豊臣秀頼により慶長13年(1608年)再建が開始されましたが、慶長19年(1614年)完成した梵鐘の銘文が問題とされ、豊臣氏が滅亡する大坂の陣の発端とされてしまいました。この鐘の「国家安康」「君臣豊楽」の文字は白く囲まれて印がついているのですぐわかります。ぜひこれは間近で見ていただきたいものの1つです。
方広寺に関連して今も残るものには、通り名としての「正面通(しょうめんどおり)」があります。これはちょうど方広寺大仏殿の正面に当たる道ということで、鴨川に架かる正面橋にもその名が残っています。
写真:古都の U助
地図を見る完成の翌年倒壊してしまった大仏の代わりに、秀吉は夢のお告げとして慶長2年(1597年)7月に、信濃の善光寺の本尊を方広寺の大仏殿へ迎えました。
戦国時代は武田氏、織田氏の手により各地を流浪した善光寺如来ですが、秀吉はその後体調を崩したことから、亡くなる寸前に信濃へ返すと決定したそうです。
その後は秀吉の子・秀頼によって大仏が再建されましたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興されましたが、この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失するなど度々受難が続き、再建がされてきました。
(方広寺:境内自由、本堂:300円)
写真:古都の U助
地図を見る通称「ほうこくさん」とも呼ばれる豊国(とよくに)神社は、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後に社領は没収されていましたが、明治13年に再建され現在に至ります。
本殿前には伏見城の遺構とされる唐門があり、その唐門の左右には秀吉の馬印であった瓢箪の形をした絵馬が多数ぶら下がっています。
唐門の扉の部分上部には左甚五郎の目無し鶴と呼ばれる「鶴」の彫刻、下部には竜門の滝を登り竜になるという故事から縁起が良い「鯉」の彫刻が施されています。通常この唐門から先は入れませんが、ぜひ近づいてよく見ていただきたいです。
唐門のすぐ横の稲荷大明神などは、秋の紅葉も見ごたえがあるのでおススメです。
写真:古都の U助
地図を見る大正14年に開館した宝物館は、当時としては最新鋭の鉄筋コンクリート製の建物で貴重な近代建築の1つです。
館内壁面には天井まで届くほどの大きな板ガラスがはめ込まれた展示ケースがあり、この大正時代の貴重なガラスには、ごく小さな気泡なども見られます。
展示品の代表としては、まず教科書に載ったこともある六曲一双の「豊国祭礼図屏風」。これは慶長9年(1604年)に行われた豊臣秀吉七回忌の臨時大祭礼の様子が描かれた作品で、金雲とともに清水寺や当時阿弥陀ヶ峰にあった巨大な豊国廟など京の町の様子が描かれています。
また幾重もの輪になって踊る人々の様子や、竹の子男と呼ばれる今で言うコスプレ姿の人物、南蛮姿の人物も描かれているなど細部まで興味深い物となっています。
珍品としては「豊公御歯」があり、こちらは秀吉本人から賤ヶ嶽七本槍の一人に数えられる加藤嘉明に譲られたもので、その際の書状とともに展示されています。
(豊国神社:境内自由 、宝物館:300円)
写真:古都の U助
地図を見る豊国神社の階段を降り、正面通を少し西に行った場所にある耳塚。こちらは「鼻塚」ともよばれ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に戦功の証として討取った朝鮮や明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰り、検分の後霊災を防ぐ為供養したものとされています。首を運搬するのは大変だった為、一般兵などは代わりに耳や鼻をそいで持ち帰り、ここに埋葬したそうです。
付近にはご紹介した「方広寺」、「豊国神社」の他にも秀吉が3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺を前身とする智積院や、秀吉の側室で秀頼の生母、淀君が亡き両親の為建てた「養源院」などの豊臣氏とゆかりのある場所が点在し、歴史の逸話が盛りだくさんです。
ぜひ一度お訪ね下さい。
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2024/9/9更新)
- 広告 -