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地図を見る京都市内中心部オフィス街にほど近い「高松神明神社」は非常にこじんまりとした神社。平安時代この地には醍醐天皇の皇子である源高松明の邸宅「高松殿」があったとされ、その高松殿内に伊勢から天大神を勧請して祀った鎮守社が「高松神明神社」の起こりとされています。
平安時代の末期に起こった「保元の乱」では、ここが後白河天皇の拠点となって平清盛や源義朝らが参集、崇徳上皇の白河北殿へ攻め込んだとされています。その後の「平治の乱」で高松殿は焼失、神社のみが残る形となりました。さらにその後、豊臣秀吉による都市計画や、度重なる火災などで、境内はかなり縮小し現在の形になりました。
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地図を見る「高松神明神社」のご祭神は天照大神・八幡大神・春日大神で、開運厄除けの神として信仰を集めています。広大な境内を誇った過去にはさらに他のご祭神も祀られていたそうです。
そして室町時代からは神仏習合の「高松神明宮宝性院」と称して神宮寺となり、明治の神仏分離令により現在の「高松神明神社」となりました。 そんな経緯から「高松神明神社」には神社としては極めて珍しい地蔵尊が祀られています。
それは「神明地蔵尊」と呼ばれる地蔵尊で、度重なる火災から免れ今に伝わってきた由緒ある地蔵尊。正面の台座をさすって、子どもの頭を撫でると知恵を授かると信仰されています。実はこの「神明地蔵尊」、とある人物のゆかりの地蔵尊だったのです。
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地図を見るこの「神明地蔵尊」、別名「幸村の知恵の地蔵尊」や「真田地蔵」と呼ばれるもの。実は紀州九度山の伽藍陀山、真田庵で毘沙門天とともに安置されていた地蔵尊の一つを拝領してきたものなのです。つまり、これは真田幸村の念持仏の地蔵尊だったのです!
台座をさすって子達の頭をなでると知恵を授かる、というのは知将・真田幸村の知恵にあやかるということ。京都の子どもたちは知らず知らずに真田幸村の知恵を授かっていたのですね。
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地図を見る「幸村の知恵の地蔵尊」はその姿が見えない状態で安置されていましたが、近年になってその姿を見れるような形で参拝できるようになりました。さらには「真田絵馬」なるものも登場し、真田幸村ゆかりの神社として参拝客を呼び込もうとしています。
この「真田絵馬」はちょっと変わった絵馬で、絵馬の真ん中にある真田家の家紋、結び雁(かりがね)がスポンと抜ける形になっており、抜いた結び雁はお守りとして持ち帰るという斬新なスタイル。ちなみに結び雁は平時に使われていた家紋で、よく知られる六文銭は戦いの時に使われた家紋なのです。
六文銭の家紋は前述の通り、戦の際に旗印に掲げられたもの。これは六道(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上)の衆生を救うため、三途の川を渡るための渡船料を意味しているのだとか。更に念持仏である地蔵菩薩は、実は地獄からの救済者である存在。地蔵菩薩を信仰していれば地獄に堕ちても救済され、極楽浄土へと往生できるということ。
これらを踏まえれば、真田幸村は地獄に落ちる覚悟で戦国時代を生き抜き戦っていた、ということになります。覚悟とは本能を凌駕する魂のことなり!その覚悟の強さが大坂冬の陣、夏の陣で徳川家康を恐れさせたような戦果として現れているのでしょう。
京都の「高松神明神社」で見えてくる、真田幸村の強さの秘密。あなたも触れてみてはいかがでしょうか?
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(2024/9/16更新)
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