写真:手塚 大貴
地図を見るシンガポールの住宅地の一角にある東南アジア最大規模の日本人墓地。
緑の木々と芝生が美しいこの墓地が誕生したのは1891年のこと。娼館主や雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林の一部を提供したことに始まります。
この地で亡くなった日本人が眠る墓地として、現在では墓標数は910基。多くの「からゆきさん」のほか、戦前に活躍した日本人や戦犯処刑者も眠る墓地となっています。
現在、シンガポール日本人会によって管理されている日本人墓地。一歩中へ足を踏み入れると、美しく管理された墓地の風景に心打たれることでしょう。
特別天然記念樹に指定されているゴムの樹やライチの樹、そして鮮やかな緑の芝生・・・。南国シンガポールらしい開放感に溢れた墓地です。
実はこの日本人墓地、沢木耕太郎の名作『深夜特急』にも描かれた場所。沢木氏が墓地の芝生の上で地元の高校生たちと談笑しながら、インドのコルカタ行きを決意する・・・、というシーンは有名です。
写真:手塚 大貴
地図を見る墓地に入って左手に建っているのは御堂です。明治末期に建てられた西有寺が前身で、その後再建を重ね、現代で3代目。シンガポールでありながら、まるで日本にいるかのような気持ちにさせてくれる建物です。
御堂の横に建つ白い納骨堂には、シンガポールに最初に住んだ日本人である山本音吉の遺灰が納められています。
音吉は14歳のときに見習い船員として乗った尾張から江戸へ向かう船が嵐に遭い、1年2ヶ月に及ぶ漂流の末、アメリカ北西海岸に漂着。その後、歴史の流れに翻弄されて世界一周をし、日本への帰国を試みるものの、鎖国政策により拒絶され、上海でイギリス商社デント商会に勤務。そして1862年、シンガポールへ移り、この地における日本人の定住者第1号となったのです。
波乱万丈な人生の果てにシンガポールに辿り着いた音吉。納骨堂を前にすると、彼の不思議な生涯を思わずにはいられません。
写真:手塚 大貴
地図を見る墓地の奥まった場所には南方軍総司令官として太平洋戦争の南方作戦を指揮した寺内寿一の墓があります。
敗戦となる1945年、寺内は病に倒れ、日本軍の降伏式にも参加できず、現在のマレーシア・ジョホール州レンガムで死去。この墓には、寺内の遺髪などが納められています。
この日本人墓地には墓だけでなく、多くの記念碑もあります。なかでも寺内の墓の近くにある二葉亭四迷終焉の碑はぜひ見ておきましょう。
日本の近代小説の始まりとされる『浮雲』やロシア文学の翻訳で知られる二葉亭四迷。朝日新聞特派員として渡ったロシアで肺を患った彼は、帰国途上のベンガル湾上の船の中で亡くなり、このシンガポールで荼毘に付されたのです。
写真:手塚 大貴
地図を見るこの日本人墓地を印象的な風景にしているのは、芝生の上に点在する小さな墓石。高さわずか30cmほどのこれらの墓は、かつてこのシンガポールで娼婦として働いていた「からゆきさん」の墓です。
明治から大正にかけて、島原や天草などの貧しい家庭の若い女性が、アジア各地に娼婦として働きに出ていました。後に「からゆきさん」と呼ばれることになる女性たちです。
シンガポールにも多くの「からゆきさん」が集まり、一時はこの街で暮らす日本人の多数を占めたほど。しかしその過酷な労働環境の下で、若くして病気で亡くなる女性や、日本に帰ることができないまま、シンガポールでその生涯を終える女性も多かったのです。
「からゆきさん」の短くも力強い生涯を表すかのように、いくつもの小さな墓が芝生の上にしっかりと立ち続けています。彼女たちが生きていた時代と変わらない、南国の太陽の光を浴びながら・・・。
日本人墓地公園へのアクセスは、MRT北東線のコヴァン駅(NE13)から徒歩20分ほど。駅から墓地へは、一戸建ての家が並ぶ高級住宅地を抜けて行くルートが近道で便利です。ただし案内板などは無いので、地図で確認しながら行くことをおすすめします。
日本人墓地は東南アジアの他の国にもありますが、このシンガポールの墓地は旅行者が最も気軽に訪れることができる日本人墓地と言えるでしょう。シンガポールへ旅行に行かれた際には、ぜひ観光の合間に日本人墓地を訪れて、かつてこの街に生きた日本の人々に思いを巡らせてみてください。
またシンガポール日本人会では毎年3月14日(週末の場合は数日ずれることもあり)に墓地慰霊祭を開催しており、献花や黙祷が行われています。
遠い異国の地でありながら、どこかで日本に繋がっているかのような風景・・・。この日本人墓地は、日々変化を続けるシンガポールにあって、いつまでも変わることのない大切な場所なのです。
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(2024/3/30更新)
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