皇女も勤めた歴代住職。鎌倉「東慶寺」で触れる女性の逞しさ

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皇女も勤めた歴代住職。鎌倉「東慶寺」で触れる女性の逞しさ

皇女も勤めた歴代住職。鎌倉「東慶寺」で触れる女性の逞しさ

更新日:2016/02/02 17:27

Isao Noguchiのプロフィール写真 Isao Noguchi 著述業、観光検定教材製作者、ブロガー

東慶寺は北鎌倉駅から徒歩5分の場所にあります。映画「駆込み女と駆出し男」の舞台にもなった鎌倉尼五山二位の格式ある寺院です。後醍醐天皇の皇女、用堂尼が住職になってからは松ヶ岡御所と称され、尼寺では別格の扱いでした。江戸時代には幕府公認の縁切寺として知られ、明治以降は国内外に向けて「ZEN」の観念を広め、発展に尽力しました。禅の世界観が凝縮された境内で、悠久の歴史を感じてみてはいかがでしょうか。

「松ヶ岡御所」と称された別格の存在。女性達の最後の拠り所

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写真:Isao Noguchi

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1285年、8代執権北条時宗夫人、「覚山志道尼」が北条時宗の菩提を弔う為にその息子、北条貞時を開基として開創しました。女性の側から離婚できなかった封建時代にあって、東慶寺に駆込めば離縁できる女人救済の寺として、明治初期に至るまでの約600年間「縁切り法」を守ってきました。

1871年の廃仏毀釈によりこの寺法は廃止となり、1902年に尼寺としての歴史に幕を閉じます。現在は、臨済宗円覚寺派に属しています。東慶寺において大きな転機となったのは、後醍醐天皇の皇女の入寺以後でしょう。それからは「松ヶ岡御所」と称され、寺格の高い尼寺としてその名を馳せるようになりました。

縁切り寺や駈込み寺という名前が先行し、少々暗い印象を受けるかもしれませんが、山門の風情は勿論、縦に伸びる境内は凛とした空気が身を引き締めてくれます。一切の無駄を削いだ、まさしく禅の境地を表しており、自然に囲まれた中でいつまでも散策していたいと思わせる心地良さです。

今も体験できる明治以降に花開いた新しき「ZEN」の世界!

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写真:Isao Noguchi

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1905年、住職に釈宗演が就くと、東慶寺は新たな禅寺としての歴史を歩み始めます。宗演は34歳の若さで円覚寺派管長に就任し「明治の高僧」と言われました。

宗演の在家仏教徒であり、仏教学者の鈴木大拙は、若かりし頃円覚寺の今北洪川に参禅。洪川亡き後は跡を継いだ宗演に師事していました。大拙は持ち前の英語能力を活かし、禅を世界の「ZEN」として広め、禅文化の発展の礎を築きました。

大拙は宗演がこの世を去ると、生前の彼の志を実現しようと1945年、東慶寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立。戦後の仏教研究の場を築き上げました。東慶寺では「日曜坐禅会」を毎週開催していますので、「ZEN」の境地を少しでも体験してみたい方はお薦めです。「坐して心を無にして寂静の境地となり仏法を得る」。己を鍛え、新たな自分を発見するには良い機会となるはずです。

宝物館には意外な資料が!一級品の文化財と併せて堪能しよう

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写真:Isao Noguchi

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東慶寺が所蔵する宝物を展示しているのが「松ヶ岡宝蔵」です。仏像などのほか、いわゆる「三行半(みくだりはん)」といわれる離縁状など、「縁切寺」としての歴史に関わる史料などを展示しています。当時、夫から逃げてきた女性が離縁を成立させるためには一定の期間、寺院で修行することが条件だったことなど、「縁切寺」についての様々な知識を得ることができます。

また、寺院伝来の仏像や蒔絵、書画など多くの文化財を収蔵しています。聖観音菩薩立像(重文)や東慶寺文書(重文)を常設展示するほか、特別展として春季には「東慶寺仏像展」、秋季に「東慶寺伝来蒔絵展」などを開催しています。また、本堂奥の水月堂には、水月観音菩薩半跏像を祀っています。

宝物館の前にはテラスがあり、境内にある菖蒲畑を見渡しながら休憩を取ることができます。その奥には茶事や写経、挿し花などの催しに使われる「白蓮舎」があり、2月から3月にかけての梅の季節、6月頃のショウブやアジサイの季節には、一般参拝客への茶店が開かれるので、宝物館で目を養ったあとは、こちらで心を整えるのも良いかもしれません。

関東大震災がもたらした爪跡。本尊を守った仏師達の巧みの技

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写真:Isao Noguchi

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美しい宝形造の屋根を誇る本堂「泰平殿」に祀られているのは本尊の「釈迦如来坐像」です。仏頭部内に墨書修理銘があり、それによると1515年に火災が起こり、その時にこの像は取り出され、仏師弘円が面部を彩色しました。その後、1670年に仏師加賀が修理を施します。また、別筆では関東大震災によって大破した本尊を昭和初年に後藤弘慶が修理し、本堂に安置したとされる記録が残っています。

鐘楼は1916年に建てられ、1923年の関東大震災で唯一倒壊しなかった建築物です。吊されている梵鐘は、材木座の補陀洛寺から移されたもので、1350年に鋳造されたと云われています。地元に伝わる「新編相模国風土記稿」によると農民が地中から掘り出したもので、鎌倉の二階堂にあった永安寺跡に埋められていたという記録が残っています。

関東大震災は、鎌倉一帯の寺院に大きな被害を及ぼしました。当時、東慶寺に収められていた国宝「聖観世音木像」も焼失した文化財のひとつです。現在、鎌倉にある寺院で国宝に指定されていた仏像で無事だったものはひとつもありません。なにせ、長谷の大仏が台座から35.8cmも動いたという記録が残っているぐらいですから、その被害の大きさが分かります。

由緒ある墓苑。悲運の生涯を遂げたあの姫も眠っている?

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写真:Isao Noguchi

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東慶寺は小さな谷の中にあり、その奥は墓地になっています。墓地を目当てに訪れる人も多く、和辻哲郎、小林秀雄、堀田善衛、高見順、西田幾多郎など多くの文化人の墓が点在しています。通常の墓苑とは別に宮内庁が管轄する後醍醐天皇の皇女、用堂女王の墓地があり、他の寺院とは異なる庭園のような美しさが印象的です。

この墓地には豊臣秀頼の娘、奈阿姫の従者であった甲斐姫の墓とされる宝篋印塔があります。今も甲斐姫の最期を知る文献は見つかっておらず、その生涯には様々な伝承が残っています。この塔の側面には「台月院殿明玉宗鑑大姉 天秀和尚御局」と記されており、研究者の中にはこれが甲斐姫の墓ではないか、という説を唱える識者もいます。

甲斐姫は1590年の「小田原攻め」の際、父である成田氏長が留守にしていた城を一族郎党と共に残り、豊臣軍が攻め込む中、陣の先頭に立ち武勇を発揮して城を守り抜いたと伝えられる女性です。後に秀吉の側室となり、作家和田竜の「のぼうの城」のモデルになったことでも有名です。

境内以外にも見所はたくさん!漱石のちょっと笑える石碑も

東慶寺は鎌倉の数ある禅寺のなかでも歴史的経緯から、鎌倉時代に確立された武家の質実剛健の気質を持った寺院とは異なります。境内を他の寺院と比較すると柔らかな印象を受けるのは、尼寺が源流であること考えれば納得できます。

山門前の入り口には夏目漱石の参禅百年記念碑が建てられています。漱石は円覚寺で釈宗演に参禅していたので、東慶寺の住職となった宗演の元を再び訪れたのです。その際、山門前の田んぼに漱石は「立ち小便」をしたといわれています。石碑もその場所であろうと推測されるところに建っており、文化人のふとした微笑ましい一面を垣間見ることができます。

その他にもギャラリーショップが併設されており、ここでしか買えない東慶寺グッズを手に入れようと、平日でも賑わいを見せています。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/01/27 訪問

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