飯盛城は大阪府の東部、河内地方の大東市から四條畷市にまたがる生駒山地をなす飯盛山の尾根上に位置する城です。南北朝時代から存在していたと推定されますが、本格的に整備されたのは戦国時代にあたる享禄4(1531)年になります。
飯盛城で有名なのは、永禄3(1560)年から4年間、三好長慶の居城であったこと。そして、楠木正成の子・正行と室町幕府を開幕した足利尊氏の家臣・高師直との戦い、四條畷の戦いが貞和4(1348)年に行われたことです。
南北朝時代の争いで南朝側についた父・正成が建武3(1336)年に討ち死にしても、南北朝が統一されても、正行は父の無念を晴らすため、河内で力を蓄えていました。これに危機感を覚えた室町幕府が残党狩りの一環として正行を襲い、討ったのです。
歴史についてはこれくらいにして、次は縄張をご紹介しましょう。曲輪が本丸より北側に設けられています。山城らしい遺構を見上げながら本丸へと向かうことができるのは北側です。そして、この北側の道の入口に正行を主祭神とする四條畷神社(写真)もあるのです。四條畷神社に手を合わせ、北側から登ってみましょう。
四條畷神社脇から登山道を上がります。大きく遠回りをしながら生駒山地の尾根へと至り、飯盛山へ。しばらく登ると、少々開けた場所に到達し、飯盛山の史跡碑が立っています。そして、この先すぐの場所にも「登山三百回記念碑」と記された細長い碑の立つ開けた場所があります。
この2か所はともに、本丸を守るために設けられた二の丸にあたる曲輪です。山を削平して平坦地を造りました。また、周辺では石垣や溝のような場所も見られるでしょう。石垣は本丸の曲輪群と二の丸の曲輪群はほぼ全域が石垣化されてたとされ、その一部がなお残っています。
石垣は近世に織田信長によって開発されました。永禄6(1563)年に築城された小牧山城、永禄10(1567)年に築城された岐阜城で石垣を試作し、安土城で自然石を積み上げた石垣を完成させ、これが一般に広まったものです。ここで見られるのは、信長が安土城で石垣を完成させる前に長慶によって造られた石垣であり、飯盛城の石垣は日本築城史的にも貴重な遺構なのです。
また、山を削った大きな溝のようなものは堀切と呼ばれるもので、こちらは中世の山城でよく見られるものです。2つの二の丸曲輪の間に尾根を遮断した大きな堀切が見られ、敵が多勢で押し寄せられないように工夫されています。山上でこれほどの土木工事が行われたと思うと驚きです。
二の丸を過ぎると道は一度下って、再び上りになります。そして、写真のような4叉路があります。二の丸とを結ぶ、ここまで歩いてきた道は左下、本丸への道は右奥へ続き、本丸を取り囲む帯曲輪への道は左奥、そして手前の削平された曲輪への道が手前、となります。
帯曲輪とは字のごとく帯状の細長い曲輪で、「本丸を取り囲む帯曲輪」は本丸を防衛するために設けられています。「手前の削平された曲輪」は二の丸から押し寄せてきた敵を上から攻撃するための場所です。帯曲輪方面に向かうのも、多彩な石垣群が見られるのでおすすめです。
本丸へ至る道は、段々状になっていることが分かるでしょうか。この一つひとつも曲輪といえるでしょう。山を削平し、こうした曲輪を設けて、戦の場合は曲輪に兵を詰めて防戦に当たらせる。飯盛城の北側における守り方がよく分かり、面白いです。
しつこく守りを固めている様子が見られるようになった、ということは本丸まであと少しなのだとも推理できます。
間もなく広い削平地が現れ、その先が本丸です。ここが標高314メートル、南北に約650メートル展開する大阪府で最大の山城の主郭部分になります。大阪平野を一望でき、山頂には楠木正行像も立っています。見事な大展望は単なる美しさだけでなく、城下の様子を見張る、敵が攻めてきたことにいち早く察知できるなどの大きな利点もあったことでしょう。
正行像が立つのは本丸高櫓郭と呼ばれます。このさらに奥にも、現在FM送信局が立つ本丸千畳敷という曲輪があります。最も大きな曲輪になり、ここが居住空間として利用されていたようです。ちなみに、この2つの本丸曲輪の間にも堀切を設けて、細長い土橋で道を造った場所があるので注意して見てみましょう。
千畳敷を出ると、こんもりとした不自然な山が道の脇にあります。土を盛った土塁と呼ばれる防御施設の一種で、敵から身を隠す壁のような役割があったものと考えられます。飯盛城の遺構はほぼ終わりです。南側は、北側に比べあっさりとした印象を受けます。
ただ、南側の登山道は比較的標高の高い場所にまっすぐ、細く設けられている印象を受けます。道の左右は大きく削られたようなところが多いです。もしも、この道が当時のままだったとすると、敵は一人ずつしか進むことができず、隠れる場所もありません。非常に攻めにくいのです。
飯盛城は、細く攻めにくい南側からの攻撃を断念させて主力を北側から攻めさせ、これを曲輪群で対抗した。そんな籠城戦のビジョンがあったのではないかと想像を膨らませることができます。
中世の山城は石垣も無く、山に削平された空間と堀切のような掘られた痕跡からどんな城だったのか想像する魅力があります。換言すれば、持てる知識と想像力で、一見はただの山である遺構とにらめっこできなければなりません。
逆に石垣の発達した近世の山城は石垣によって分かりやすく区画されていますが、区画された意図を読み解かねばその城の個性に気付くことはできないでしょう。
飯盛城は中世の山城と近世の山城の狭間の期間に整備された山城です。そのため、バラエティに富んだ工夫が見られ、山城を楽しむための導入に良い城ではないかと思います。標高も300メートル少々で、眺望の良さからハイカーにも愛されています。ハイキングがてら、歴史探訪の新たな扉を開かれてはいかがでしょうか。
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