写真:塚本 隆司
地図を見るJR玉造駅から大阪城方面へ500メートルほどの位置に玉造稲荷神社はある。
創祀(そうし)は、紀元前12年の秋。「お稲荷さん」の総本宮とされる京都の伏見稲荷大社よりも歴史が古く、分霊された稲荷社ではない。
玉造の名は「日本書紀」に「玉作部の住居地」として記されているように、この地で勾玉が作られていたことに由来する。境内の「難波・玉造資料館」は、1週間前までに連絡しておけば見学可能だ。
この地は、歴史の舞台として度々登場する。
聖徳太子がここに陣を置き、戦勝祈願を行い勝利したという。大化の改新で都が置かれた難波宮もすぐ近くだ。
豊臣期には、広大な大阪城の三ノ丸にあたり、「大阪城の鎮守神」として祀られた。徳川期に入っても大阪城代が着任の際に参拝するなど、その信仰は引き継がれている。
また、お伊勢参り(おかげ参り)の西日本における出発点として賑わっていたという。ちなみに伊勢神宮までは、およそ170キロだ。
写真:塚本 隆司
地図を見る境内でひときわ存在感を放つのが「豊臣秀頼公像」だ。
秀頼の生前に描かれた肖像画を元に、衣装など時代考証を重ね製作されたもの。ここでしか見られない唯一無二の銅像なのだ。
わずかに顔を右に向け、玉造稲荷神社の本殿越しに大阪城を見つめている姿は、よく言われる「マザコンで軟弱なダメ息子」とは程遠い。確かにこの印象の元と思われる京都養源院に伝わる「豊臣秀頼の肖像画」には、色白で気弱そうな少年が描かれている。
しかし、実際の秀頼は頭脳明晰で人望の厚い人だったとか。
秀頼公像の元となった生前に描かれた肖像画「豊臣秀頼像」(東京藝術大学所蔵)を見ると「大柄(身長約197センチメートル)で賢く他人の命令に従うような人物ではない」とか、二条城で会見した徳川家康が驚くほどの成人ぶりだったという話もうなずける。
真田信繁(幸村)の願いで描かれ下されたものともいわれ、歴史ロマンを感じずにはいられない。
写真:塚本 隆司
地図を見る境内に、胞衣塚(よなづか)大明神がある。豊臣秀頼と母・淀の縁を祀った社だ。
胞衣(よな・えな)とは、出産時に胎児と共に出てくる卵膜や胎盤などのこと。ここに秀頼出産時の胞衣が収められているのだ。
このような代物が徳川期に祀られるなど許されるはずもない。長らく豊臣家を慕う大阪の人たちにより、場所を変え守り続けられてきたというから驚きである。
胞衣塚大明神の前に「縁のひも掛け」がある。男女の縁や親子の縁、仕事の縁などの願いを託すところだ。
大坂の陣で秀頼を守るべく戦った真田幸村ゆかりの真田紐で作られた「縁のひも」に、願いを書き結ぶ。「子の悩み」や「夜泣き」にも霊験があるという。真田ブームもあり、多くの人が訪れているようだ。
写真:塚本 隆司
地図を見る秀頼と淀は同神社への信仰が厚く、社殿の再興など多くの寄進をしている。
境内に不自然に背の低い鳥居が建つ。1603(慶長8)年に秀頼が寄進した鳥居だ。以前は、本殿正面に位置していたが阪神淡路大震災で崩壊してしまい、今は上部と脚部が境内奥に移されている。
写真:塚本 隆司
地図を見る豊臣時代に思いを馳せることができる場所が他にもある。千利休が使っていたという井戸だ。
玉造周辺には、前田利家や宇喜多秀家、細川忠興ら有力大名の屋敷が立ち並んでいた。利休の屋敷も近くにあったとされている。
城の鎮守神には、大名も頻繁に参詣したことだろう。大名同士がこの境内で立ち話をしたり、気に入らない相手には嫌味のひとつも言っていたかもしれない。
現在の大阪城は徳川時代に再建されたもので、豊臣期の面影はほとんどない。しかし、玉造稲荷神社には豊臣末期を感じさせてくれるものが残っている。
名だたる武将の多くが参詣したに違いない。もちろん真田信繁(幸村)も訪れただろう。
そんな想像ができる場所が現代にも残っていると思うと、歴史ファンならずともワクワクしてくるのではないだろうか。
稲荷信仰の商売繁盛・事業発展・家内安泰・子孫繁栄の他、胞衣塚大明神の縁結びや恋キツネ絵馬、なで子持曲玉石(なでこもちまがたまいし)を撫でると子授けのご利益があるなど、霊験のある神社。
真田丸観光の際には、ぜひ訪れて欲しいスポットだ。
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(2023/12/8更新)
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