まず最初に、高野山でもっとも重要な「奥の院」からご紹介します。
高野山駅から奥の院行きのバスに乗り、最終で下車すると左手正面が「奥の院」入口となります。そこから歩いて行くと「御廟橋」があり、その先は霊域となります。橋の前では脱帽し、一礼をしてから橋を渡ります。この橋まで、弘法大師が参拝者を迎えに来ていると言われています。そして帰路では、ここまで見送りに来ているとされます。
空海は奥の院で今も生き続け、禅定を結んでいるとされています。平安時代の昔より今日まで毎日、僧により衣服と食事の給仕が続けられているのです。
続いてご紹介するのは、奥の院から街の中心地に向かう途中にある「成福院」です。ここの仏塔は摩尼宝塔(まにほうとう)と呼ばれ、日本での通常の形である円形ではなく八角形をしています。これはビルマ(現ミャンマー)のパゴダを意味しています。
元の住職(故・上田天瑞)は高野山大学で学長を務めた大僧正でした。昭和16年に南伝仏教研究のためにタイに渡ります。戦争がはじまり陸軍委託としてビルマ戦線に従事します。そこでビルマ僧となり、学校の設立等の地域発展に尽力しました。
帰国の際、ビルマ仏教教会から仏像を渡されます。これを本尊として、ビルマ戦線での戦没者慰霊のためにこちらのお寺を建立したのです。そして摩尼宝塔は戦没者全ての人の供養のために作られています。
内部では戦没者の遺品、戦地の写真、ミャンマーの民具や玩具、そしてミャンマー式の仏像を見ることが出来ます。また、地下に進むと涅槃仏がありますので、こちらにも行ってみて下さい。
三番目にご紹介するのは「金剛峯寺」です。金剛峯寺とは弘法大師の命名となります。昔、金剛峯寺とはそのまま高野山であると認識されてきました。現在では高野山真言宗の総本山として金剛峯寺があります。これが正式に決まったのは明治2年のことです。寺紋は五三桐紋と三つ巴紋の2つです。
文禄2年(1593)に豊臣秀吉が亡母のために建立しています。文久3年(1863)に再建されたのが現在の姿です。
「柳の間」では豊臣秀吉に追放された秀次が自刃した場所。「上壇の間」は天皇・上皇が登山された際の応接間として使われました。このように内部は見所がたくさんあります。
「蟠龍庭」は日本最大の庭園です。雲海を表す白い砂は京都から運ばれて、そこに雌雄一対の龍が奥殿を護るように表現されています。龍に使われている石は四国産の花崗岩で140個あります。
大広間ではお茶とお菓子の無料サービスがあります。休憩をしながら、空海の肖像画や曼荼羅を眺めるのは、いかがでしょうか。
四番目にご紹介するのは、高野山でも特に美しい「根本大塔」です。金剛峯寺から歩いて10分程で見えて来ます。真言密教の根本道場として建立されたこちらは、多宝塔として日本最初であり、内部に四仏が祀られており、朱色の鮮やかさは特に目を引く美しさです。
最後にご紹介するのは「女人堂」です。大塔から中心地方向に進み、左折するとバスで通って来た道に戻ることが出来ます。ここから駅方向に、約1キロ歩くと女人堂があります。密教の聖地である高野山にお参りしたいという気持ちは女性も同様でした。しかしながら古来、女人禁制であったため、登山して来た女性がこれ以上先に進めなかった場所に女人堂があるのです。
元々は七つあった登山口ですが、女人堂が現存しているのは不動坂口にあるここだけです。女人禁制が解かれるまでの約1000年間、多くの女性がここで様々な時間を過ごしたのです。
この女人堂から坂道を歩いて下ることが出来ます。バス停から駅方向に30m程歩くと右に下る道が見えてきます。そちらがお遍路道です。そこから約40分下って行くと極楽橋駅に到着します。
一部は平安時代から残る古道であり、高野山への最後の難所と言われる坂です。現在でもお遍路さんに使われていますが、時に自らの足で歩いてみることで、長い歴史に思いを馳せるのも有意義な時間となるのではないでしょうか。
高野山は見所がまだまだあります。大正10年に文化財を一般公開したのが最初である霊宝館は大塔の近くです。徳川三代将軍であった家光が、徳川家康と秀忠を祀った金剛峯寺徳川家霊台は、重要文化財として今も残されています。こちらは女人堂の近くにあります。
1200年の間、真言密教の聖地として守られ、多くの人に支えられてきた高野山は、訪れる人たちに様々なものを残してくれるでしょう。
これを機会に、高野山に訪れてみてはいかがでしょうか。
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