写真:Naoyuki 金井
地図を見る豪徳寺の歴史は室町時代前の南北朝の頃、関東管領足利基氏から吉良治家が戦の手柄から武蔵国世田谷領をもらい受けて、世田谷城を築城したことに始まります。
そして吉良氏八代二百数十年の間、世田谷御所と呼ばれ、吉良政忠の時代に叔母を弔うため、この地に創建された弘徳院が豪徳寺の前身となるのです。
その後、1590年秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたことから、吉良氏も運命を共にして世田谷城は廃城となったのです。
これと同時に弘徳院も荒れた状態となったのですが、この貧乏な寺を救ったのが一匹の猫だったのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る江戸時代、世田谷が井伊家の第二代彦根藩主直孝の時代に井伊家所領となったことから貧乏寺、弘徳院(後の豪徳寺)の運命も変わります。
直孝が鷹狩の帰りに弘徳院の前を通ると、お寺の白猫《たま》が手招きをしていました。面白がった直孝が《たま》に招かれるまま住職とお茶をしていると雷雨となり、「濡れずに済んだ上に住職の話を聞けた」と大変喜び、弘徳院を井伊家の菩提寺としたのです。
1633年、直孝は井伊家の菩提寺として伽藍を建立整備し、直孝の死後、その法号により『豪徳寺』と寺名を改称したのです。
特に娘の掃雲院は多くの堂舎を建立し、仏殿を始めその三世仏像や鐘楼が現在文化財として残されています。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る豪徳寺復興のきっかけとなった《たま》が亡くなった時住職はお墓を作り、「招福猫児(まねぎねこ)」と称して招福観世音菩薩を本尊(招福猫児はその眷属)とする『招猫殿』を建立しました。
この招福猫児は右手をあげて、小判などを持たない白く素朴な猫で、これは「左手は武士にとって不浄の手だから」と云う理由であり、更に「猫はチャンスはくれるけど、結果(=小判)は与えてくれない。」と云う戒めだったのです。
これが各地にある“招き猫発祥伝説”の一つとなったのですが、発祥かどうかは別として現在では猫は幸運を招くという信仰から、願掛けや御礼として招猫殿の横に数多くの招福猫児が奉納されているのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見るこうして井伊家に庇護された豪徳寺は、井伊家代々の菩提寺として繁栄していきます。
井伊家の墓所には、豪徳寺中興の祖とも云える二代直孝を始めとして、六代直恒、九代直=A十代直幸、十三代直弼、そして彦根藩最後の藩主である十四代直憲が葬られています。更に正室・側室・早世した家族、江戸で亡くなった藩士なども葬られており、三百余基の墓石がある広大な墓所となっていて、墓所全体が国指定史跡となっています。
特にあの桜田門外の変で暗殺された『第十三代井伊直弼の墓』は東京都の史跡にも指定されています。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る一匹の白猫《たま》と《直弼》を始めとする井伊家を融合させたのが、平成のゆるキャラ《ひこにゃん》で、彦根市のイメージキャラクターとして全国で人気を博し、これにより豪徳寺の街でも町興しが行われていますが、豪徳寺も手を拱いてはいません。
それは、通常ありえない場所に《招福猫児》が居るサプライズなのです。
一般的に仏塔の四方には、三体ずつ干支の動物の彫刻を守護として付けるのですが、この豪徳寺『三重塔』の“子(ねずみ)”の箇所には、何と干支から外された猫《招福猫児》が一緒に鎮座しているのです。
この他にも塔には猫が三か所いますので、日本でも珍しい三重塔で幸運の猫を探してみてください。
以上の様に豪徳寺では招き猫を授与しており、その豪徳寺が井伊家の菩提寺であることから、彦根市では幸運を呼ぶ招き猫と代々彦根藩主であった井伊家を結び付け、井伊家伝来の赤い兜をかぶったゆるキャラ《ひこにゃん》を作り上げたのです。
意外な歴史とサプライズな仕掛けのある名刹『豪徳寺』を楽しみに、一度参拝されてみてはいかがですか。
世田谷のパワースポットで、きっとあなたにも幸運がやって来ることでしょう。
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(2024/12/3更新)
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