西讃が誇る高石垣の大城郭〜香川・丸亀城〜

西讃が誇る高石垣の大城郭〜香川・丸亀城〜

更新日:2016/03/11 14:21

天正15(1587)年、讃岐国主として入った生駒親正により築城されたのがこの丸亀城です。本城は高松城とし、子・一正を城主として西讃の抑えとするべく慶長2(1597)年に築城されました。

一正が家督を継いでからは城代が置かれ、一国一城令によって廃城。生駒氏が転封されると外様大名が5万石の丸亀藩を立藩し、丸亀城を本城としました。丸亀藩は大藩ではありませんが、大藩の居城にも引けを取らぬ魅力があります。

総高日本一の高石垣!

総高日本一の高石垣!
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丸亀城が見えてくると遠くからでもその特徴がよく判り、圧倒されます。それが高石垣です。丸亀城が築かれたのは標高約60メートルの亀山です。亀山を全山城郭化させており、丸亀城の曲輪は内堀に囲まれた山麓の山下曲輪と山上の4つの曲輪、三の丸下段を帯状にめぐる帯曲輪、その上の三の丸、さらに上の二の丸、最上部の本丸で構成されています。

内堀の底が海抜0メートルで、標高約30メートルの山の中腹までは地山が見えますが、海抜から山上の三の丸までの高さは50.5メートルあります。すなわち、山麓と三の丸を区切る石垣部分ですでに約20メートルもの高さがあるということになります。

そして、二の丸が58.6メートルで、これに加えて8.1メートルの高さの石垣がその上に築かれ、さらにその上の66.5メートルの位置に本丸があり、7.9メートルの石垣が築かれています。総高は40メートル近くになり日本一です。日本一の高さを誇る石垣が、三の丸下段の帯曲輪も加えると4層にわたって築かれており、この姿は丸亀城でしか見ることができません。

このそそり立つ高石垣こそが丸亀城の最大の特徴です。写真は大手門付近の内堀より外側です。それでは、大手門より城内へと足を踏み入れましょう。

現存する巨大な桝形虎口「大手門」

現存する巨大な桝形虎口「大手門」
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さて、城内への正式な入口である大手門は、土橋と高麗門(開放時の扉にも雨が掛からないように小さな屋根が付けられている簡素な門)の形式である二の門、そして屈曲させた先に櫓門の一の門を設け、桝形をなす石垣には巨岩を用いた近世城郭の典型的な桝形虎口となっています。

珍しい形式ではありませんが、虎口は比較的大きく、一の門・二の門ともに現存しているのも見逃すことのできない特徴です。二の門の櫓部分は入ることができるので、攻め込もうとした敵に対して櫓からどのように攻撃をする仕組みになっていたのか、確かめてみるのも良いでしょう。

大手門を抜け、山麓から斜めに山を登ってゆく見返り坂を登り切ると、いよいよ丸亀城の真骨頂、高石垣の真下に迫ります。

石垣の曲線美“扇の勾配”

石垣の曲線美“扇の勾配”
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高石垣の下まで至りました。石垣の高さは前述の通り約20メートル。隅角部は下の傾斜が緩く、上に行くにしたがって急斜面になっています。この美しい曲線美を「扇の勾配」と呼びます。扇の勾配は、重心を内側に持っていくことで石垣が崩れにくいようにする構造的な意図と、下方を一見すると登れそうな傾斜にすることで、途中まで登らせて急勾配になった上部で立ち往生させてしまう戦術的な意図があります。

三の丸や帯曲輪の石垣を見ると、死角を減らすことを目的とした折れを連続させていることも判ります。美しさもさることながら、構造的・戦略的にも非常に考えられた石垣なのです。なお、写真は三の丸西隅。この場所が最も美しい曲線美を描いています。

小さくも四国が誇る現存天守

小さくも四国が誇る現存天守
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4段にそびえ立つ高石垣の最上部、本丸の北隅に立つのが丸亀城の天守閣です。万治(まんじ)3(1660)年に完成した3層3階の現存木造天守で、日本一小さな現存天守とされています。しかし、小さいながらも工夫がいくつか施されています。

下から見ると実際よりも大きく見えるように1層目、2層目、3層目ときれいに逓減された層塔型になっており、南北には唐破風、東西には千鳥破風の意匠も見られます。多門櫓を接続していた西面を除いて3面が下見板張りとなっており、天守下の虎口に対して石落や複数の狭間も設けています。

城内では、縄張図など丸亀城に関わる資料や、江戸前期より代々丸亀藩を治めて明治維新を迎えた京極氏の歴史などを展示しています。西讃が一望できるのは勿論のこと、瀬戸内海の島々や瀬戸大橋も見渡せ、眺望にも優れます。丸亀城は天守閣も良いのです。

圧倒的な石垣で造りあげられた堅固な搦手口

圧倒的な石垣で造りあげられた堅固な搦手口
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城の南側、三の丸への搦手です。現在の大手は北になっていますが、再築当初はこちらの側が大手でした。それだけに、山下曲輪から帯曲輪を経て三の丸へ到達するまでの道は複雑に屈曲しており、城内で最も堅固な構造をしています。門跡の加工された石も見事で、力を入れて築かれたことがよく分かります。

丸亀は生駒親正を初めとする生駒氏4代が治め、次に山崎家治が丸亀藩を立藩して丸亀城を再築し3代にわたって治めました。その後が京極氏7代の時代となるのですが現在、丸亀城で見られる打ち込み接(はぎ)の石垣は家治による再築時の石垣です。

しかし、山下曲輪の搦手付近には生駒氏によるものと思われる、野面積みの石垣も見られます。城の歴史を物語る貴重な石垣も搦手にあるというわけです。

丸亀城の縄張の特徴を添えて総括します

丸亀城の縄張は一般的に渦郭式と呼ばれます。攻城側が攻め上る際、本丸に向かって渦巻状の動線を描きながら移動しないとならないように城が設計されている、と思われるからです。

しかし、実際に丸亀城を見てみると、こうしたビジョンに違和感を覚えます。攻城側の動線の起点となる大手門の桝形虎口は、断固として敵を攻め込ませない気概さえ感じさせるような堅い守りを誇っており、むしろ搦手は山下曲輪側に土塁を設ける以外に工夫が見られず、あからさまに脆弱だからです。しかし、この搦手の先には城内一堅固な搦手口も控えています。

これらを勘案すると、攻城側に対して大手から攻めることを諦めさせて搦手側に誘導し、山下曲輪に侵入した攻城側に対して搦手口で大打撃を与える狙いが見えてきます。山下曲輪を望める地山には、帯曲輪以外にも前述の野面積みの石垣などで築かれた補助的な曲輪も見られ、こうしたビジョンであれば補助的な曲輪も分散した攻城側に攻撃を与えるためのものだと考えることができるのです。

このように城を訪れた際は、この城はどのように守る狙いがあるのか、また、どのように攻めると良さそうかを考えながら歩いてみて下さい。そうすると、城めぐりがより一層楽しくなることでしょう。

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