「中城城跡」観光は、城の正門は管理事務所がある入場口とは反対側からの開始となります。手続きが終わったら専用の道路を使って一番奥まで進んで下さい。
また、無料の小型車を利用することも可能ですので、受付で確認してみましょう。
明確な創建は分かっていませんが、14世紀半ばから先中城按司に始まり、数世代に渡って造られたと考えられています。「中城城跡」を最終的に仕上げるのが、読谷村にあり現在では日本最古の門が残っている「座喜味城跡(世界遺産)」の主であった護佐丸盛春按司が移り住んでからです。
按司(あじ)とは、琉球王国での称号と位階であり、王族の中からの分家として出ることがありました。やがて地方では王のかわりの支配者の称号となっていきます。
護佐丸はその後、首里城に攻め入ろうとしていたとして、「勝連城跡(世界遺産)」の阿麻和利按司から攻められ不遇の最後となります。
1609年の薩摩藩、島津家が琉球出兵して戦争となり、やがて島津統治が始まります。その時代は長く廃藩置県まで続くのです。廃藩置県の時から沖縄戦前まで「中城村役場」が置かれていたことも特徴的なことですが、廃藩置県の際から残されていた建物は、沖縄戦で焼失してしまいました。
中城城の石段は見事な形で残されています。また、城壁は場所によって上まで行くことが可能ですので、高いところからグスクの全景を見ることが出来ます。
座喜味城から移り住んだ護佐丸は名建築家として名が残っています。名声の通り、増築された城壁は「相方積み」と呼ばれ、それらは三の郭、北の郭に残されています。これは現代からみても高度な技法が用いられたのです。なお、郭とは城壁、砦のような意味となります。
琉球石灰岩は多くの場所で建築資材として使われてきていますが、中城城の城壁は琉球芸術と言える美しさを残し、ペリー提督一行が感嘆したこともうなずけることでしょう。
西側の正門に近い場所に不思議な階段が残されています。なぜ、同じ階段に左右で段差があるのか、正確なところは分かっていません。一説では築城で石を運ぶ際、二人一組で天秤を使って運んだことから、段差があるとバランスが取りやすかったというものがあります。このように違いがある階段は、日本国内ではあまり見られない特徴です。
なお、似たものは東南アジアの一部の寺院でも見ることが出来ますので、はるか昔の交流の跡なのかも知れません。
中城城跡は、四季折々の花が楽しめる場所としても知られています。場所によっては、白い琉球石灰岩とコントラストを楽しめるように、色とりどりの草花が咲いており、遠くも近くも絶好の撮影スポットと言えます。
世界遺産「中城城跡」は、東に中城湾を見下ろし、その先に広がる太平洋、西に東シナ海が見え、南には知念半島、北に勝連半島が見えます。城壁と遠望する海は見事な調和を見せてくれます。グスク内に広がる緑はどこまでも美しく、フォトジェニックな写真も間違いなしです。
最後に、その他の観光地についてご紹介します。首里城を含むその他の城址、また外せない沖縄グルメ。詳細は下記の関連MEMOにリンク設定していますので、ぜひ旅行の参考として下さい。
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