「首里城」であまり知られていない「琉球」と「中国」の関係を巡る旅!

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「首里城」であまり知られていない「琉球」と「中国」の関係を巡る旅!

「首里城」であまり知られていない「琉球」と「中国」の関係を巡る旅!

更新日:2017/02/06 17:48

大里 康正のプロフィール写真 大里 康正 写真家、旅ライター

沖縄県那覇市首里にあり、沖縄観光では外せない場所となっているのが世界遺産「首里城跡」です。琉球王国最大規模であり、最も権力を持っていたのが琉球王。その中心地であり王宮が首里城だったのです。

琉球と中国との関係にスポットを当て、一般的に言われる観光とは別の角度から「首里城」の魅力に迫り、見落とされがちな「龍樋」の原理にも触れて行きます。

「首里城」とは

「首里城」とは

写真:大里 康正

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「首里城」の正確な創建年は分かっていません。しかしながら、1429年から1879年までの450年間続いたのが正式な王統と記録があります。城郭は内郭と外郭に分類されます。内郭は15世紀初期頃に、外郭は16世紀中期頃に完成したとされます。ここが政治と軍事、そして宗教の中心地でした。

琉球王が住んだ場所は王宮であり、また、王国を統一する様々な行政機関が集中したのです。数々の戦争に関係し、そして沖縄七御嶽で沖縄本島最大の聖地「斎場御嶽」を司るノロ(祝女。女性祭司)は、首里城から派遣されています。

かつて正殿を含めた複数が「国宝」とされていたいことがあります。しかしそれは昭和20年の沖縄戦前までであり、戦争で破壊されました。その後、琉球大学建設の際、完全に痕跡を残せなくなり、本来の姿として残ったものは遺構のみ、ということになります。

美しき「守礼門」

美しき「守礼門」

写真:大里 康正

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首里城で最初に通る門が「守礼門」です。門の中央の真下は、王族が使う通り道であり、他の人たちは横を通行していました。観光ではどこを歩いても何ら問題はありません。

「守礼門」とは「礼節を守る」という意味で「守禮之邦」と扁額に掲げられています。この書き方は中国式です。これは琉球王朝第二尚氏の時代、中国万暦皇帝の詔勅(帝による正式な伝達)にあった言葉です。礼節を守る琉球王国は、中国から認められたという意味になります。

「守礼門」は、第二尚氏王朝4代目である尚清王(在位1527年−1555年)には存在していたことが分かっています。6代目の尚永王(在位1573年−1588年)に「守禮之邦」が作られ、中国から冊封使が来ている間は「守禮之邦」の扁額を使い、通常は「首里」の扁額を使ったとされます。冊封使とは、中国皇帝が爵位を与えるために遣わした使節を意味します。

しかしながら9代目の尚質王(在位1648年−1668年)の時代、「守禮之邦」の扁額が常用となったのです。この門をくぐる際には、このようなことも思い出してみて下さい。

意外に見落としがち「龍樋」

意外に見落としがち「龍樋」

写真:大里 康正

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「龍樋」は首里城の飲料水として使われて来ました。この水は、古来より枯れることがありません。では、高台にある首里城でどうやって水が出続けているのか、不思議な場所とされていますが、その秘密は泥層と琉球石灰岩にあります。水が浸透しやすい石灰岩と水が浸透しにくい泥層の間に龍樋があり、大地の傾斜を伝わってこの場所から水が出続けるのです。

1523年に、中国からもたらされた「龍樋」は当時のまま!この場所は見落とされがちですが、500年を越える古い龍樋が残されている点からも極めて貴重な場所なのです。ぜひとも、足を止めて下さい。

日本の神社では、身を清める「手水舎」に龍が使われます。龍は水を司ると古代中国では考えられていました。この考えが日本に伝わり、今でも日本の神社に残されているのです。神社そのものに龍が彫刻されていることは多く、これは神社が五穀豊穣を祈願する場でもあり、農耕に関係する雨水がどうなるかが重要だったことを意味します。

また、江戸時代の火消しに使われた手押し式の水出し装置が「龍吐水(雲龍水)」と呼ばれたことも、龍と水の関係を物語っています。

龍樋から瑞泉門、漏刻門を通り、その先の広福門から有料区域となります。漏刻門の正面に日彰台と呼ばれる日時計がありますので、そこも見ておきましょう。なお、漏刻とは中国語であり、日本語の意味は「水時計」となります。この門の櫓に水時計が設置されていたことから、その名前が付いています。

輝きを見せる「正殿」

輝きを見せる「正殿」

写真:大里 康正

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琉球王国の中心地として機能していたのが「正殿」です。1階は国王が政治の一切をとりおこなう場所であり、2階では王と親族により儀式が執り行われていました。

世界遺産としての登録は「首里城跡」であり、復元された建物、城壁は含まれていません。首里城の何が世界遺産なのかと言えば、建物では無く遺構なのです。

しかしながら首里城の建物は、残されていた戦前の写真、細部には想像や古老の記憶を含めながらの再建ではあっても、建物の色は見事であり、当時も美しき光を放っていたと考えることに無理はありません。それを感じられるからこそ、再建に意味があるのです。

なお、正殿には合計で33体もの龍が装飾されています。正面、唐破風の上の龍は胴体もあるのです。龍を探してみるのも面白い旅となるかも知れません。

「御差床(うさすが)」と呼ばれる玉座

「御差床(うさすが)」と呼ばれる玉座

写真:大里 康正

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王宮であったこの場所は、「御差床」背後の障子戸の奥に王専用の階段があり、2階から御差床に直接出御していました。王の椅子は残されている尚真王(在位 1477年−1526年)の肖像画を元に再現されています。

金と龍で彩られ、扁額で「中山世土」、「輯瑞球陽」、「永祚瀛壖」と掲げられた内部は、日本とは思えないことでしょう。これらは元々琉球王国時代にこの場所に掲げられていたのですが、王国解体後に外されており、別の場所に保管されていたものの沖縄戦で焼失したのです。

なお、一部でガラス張りの床から当時の遺構を見ることが出来ます。これが世界遺産ですので、足元から下を見てみましょう。

最後に

いかがでしたか?首里城は見どころがあまりにも多く、一度には伝えきることが出来ません。これを機会に世界遺産「首里城跡」に足を運び、直接様々な場所を見学してみて下さい。

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掲載内容は執筆時点のものです。 2015/06/26 訪問

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