戦国三英傑が集いし清洲城。天下統一は尾張から始まった!

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戦国三英傑が集いし清洲城。天下統一は尾張から始まった!

戦国三英傑が集いし清洲城。天下統一は尾張から始まった!

更新日:2016/03/14 17:36

Isao Noguchiのプロフィール写真 Isao Noguchi 著述業、観光検定教材製作者、ブロガー

清洲城は織田信長が天下統一への第一歩を踏み出した城です。桶狭間の戦いに勝利して以降、この地を拠点として領土拡大を進めていきました。信長亡き後も「清須会議」や「清洲越」など、時代の転換期にその名を残しています。戦国三英傑全てにゆかりのある城郭は歴史ファン必見ですので、名将たちの想いをぜひ感じ取って下さい!また、周辺の五条川堤防や清洲公園の桜も有名な観光スポットですので、訪れてみてはいかがでしょうか?

清洲を抑えし者が天下を制す。信長が執着した天下取りの布石

清洲を抑えし者が天下を制す。信長が執着した天下取りの布石

写真:Isao Noguchi

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清洲城の名を天下に知らしめたのは、なんと言っても桶狭間の戦いです。1560年、織田信長は領地であった尾張に兵を進めてきた今川義元を討つため、この城から出陣をします。四万を超える今川軍に対し、織田軍は五千。奇襲戦法で見事今川勢を打ち破り、天下取りに名乗りを挙げたのです。

信長と徳川家康が同盟を結んだ場所(清洲同盟)もこの城であり、当時の資料から、信長はこの地を天下取りの足がかりとして最重要地域と考えていました。その理由に交通の要所としての利便性が挙げられ、京へ上ることは勿論の事、関東・中部・北陸地方へ軍を進める際にも基点となり得る場所だったことが考えられます。

天守閣に登るまでの各階には、清洲の歴史を古代から順に紹介しており、城周辺の発掘調査によって出土した土器など、戦国時代だけではなく考古学などの視点からも清洲の魅力を知ることができる構成になっています。是非、そちらもご覧になってみて下さい。

天下統一への序章。秀吉が実権を掌握した清須会議とは?

天下統一への序章。秀吉が実権を掌握した清須会議とは?

写真:Isao Noguchi

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1582年、本能寺の変により、織田信長は天下統一を目前にして倒れます。その一報を聞きつけた羽柴秀吉は、備中(高松)から京までの200kmをわずか10日間で取って返し(中国大返し)、「山崎の戦い」で明智光秀を討ち取ります。明智を倒し近畿地方の秩序を守った秀吉は信長の後継者として一躍有力者に躍り出ることになるのです。

そして同年、清洲城で信長亡き後の正統な後継者を決めるべく開かれたのが「清須会議」です。映画の題材としても取り上げられ、作品の中でも天守閣からの眺めや近郊の風景などが印象的に描かれています。戦国の世にあって、話し合いで物事を決めるというのは一見斬新に思えます。しかし、あくまでも血縁上の「後継者」が存命している以上、例え秀吉と言えど戦の大義名分は無く、一家臣として今後の織田家をどう支えていくか、というのが表向きの議題でした。

城内ではこの「清須会議」を小さな子どもたちにも知ってもらおうと、当時の衣装を身にまとったスタッフの方が紙芝居で分かりやすく説明してくれます。土日祝日はフロアが一杯になるほど親子連れで賑わいますので、間近で紙芝居を観たい方は少し早めに席を確保しておきましょう。

壮大なる都市構想。「清洲越」にみる家康の先見性と知略!

壮大なる都市構想。「清洲越」にみる家康の先見性と知略!

写真:Isao Noguchi

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その後、清洲の運命を大きく変えたのは徳川家康です。秀吉亡き後、天下分け目の「関ケ原の戦い」に勝利し、1603年には江戸幕府を開きます。かつての所領だった尾張は、息子たちに納めさせました。そして、自らの権力をより確かなものとするために、重要な拠点であった尾張の中心地を清洲から名古屋へ移すことを決定するのです。

清洲の城下町は、城郭や武家屋敷をはじめ、寺社仏閣から町屋に至るまで、街全体が名古屋に移されました。これが世に言う「清洲越(きよすごし)」と呼ばれるものです。その記録は清洲城跡地に建てられた「清洲城霊碑」(写真)に、「清州城の一部は名古屋城築城の為に移された」と記されています。この政策によって尾張の中核としての機能を失った清洲ですが、再び活況と繁栄を取り戻す契機となったのが青物市場「下小田井の市」です。

この市は後に「江戸の神田」・「大坂の天満」と共に「日本三大青物市場」として並び称されることになり、江戸時代の尾張の台所といっても過言ではないほど、名古屋一帯の食文化を支えていくことになります。現在も名古屋市北部市場として受け継がれており、庶民に愛されています。

当時の清州の繁栄を肌で感じるなら、JR西枇杷島駅から清須城へと続く「旧美濃街道」沿いを歩くのがお薦めです。古民家を改装して町屋を再現した「一休庵」や、大名・朝鮮通信使も通行した美濃路に残る「清洲宿」など、情緒ある街並みに触れることができます。

築25年の清洲城?模擬天守閣でも随所に往時の面影あり!

築25年の清洲城?模擬天守閣でも随所に往時の面影あり!

写真:Isao Noguchi

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清洲城の見処はこれだけではありません。まず、天守に繋がる橋を渡る前に、「清洲城の石垣」を見ておきましょう。この地帯は地盤が緩かった為、それに耐えられるよう「梯子胴木」という基礎を造り、その上に石垣が築かれています。当時の面影を残す唯一のもので貴重な史跡です。

そもそも、天守閣は1989年に建設された模擬天守閣であり、鉄筋コンクリート造りで往時の櫓や城壁といったものは現存しません。築城時の絵図などが残っていないため、城郭自体に価値があるのかは意見が分かれるところですが、城内には、甲冑や武器など信長ゆかりの品が展示されています。また、大河ドラマに幾度も取り上げられていることから、歴代大河ドラマにおいて信長役を演じた俳優とその衣装を紹介するコーナーが設けられています。

敢えて、当時の資材を挙げるとするならば、名古屋城の御深井丸西北隅櫓です。清洲越の際、名古屋城築城の際の資材として利用されたことから、「清須櫓」とも呼ばれています。その他にも天守閣の正面左手にある書院は清洲越の際、清洲城内から名古屋城本丸御殿に移築されたと伝わる黒木書院を再現したものとされています。

少し範囲を広げて、隣接する「清洲古城跡公園」に足を運ぶと、信長公を祀る小社(写真)が建てられています。命日には「信長公顕彰祭」が行われ、神事、式典は勿論のこと、出陣の舞、奉納太鼓、民謡太鼓などが催され、織田信長公の人柄を偲び、その業績を称えています。

天守閣までの道程は楽ではない。必ず軽装で行くべし。

清洲城まではタクシーなどを使わない限り、徒歩で向かうことになります。JR東海道本線清洲駅、または名鉄名古屋本線新清洲駅のどちらにも周辺にコインロッカーなどがないので、ターミナル駅などで荷物を預け、片道15分歩ける準備をしておきましょう。

城内にも荷物を預けるところはなく、手荷物を抱えたままで拝観するのは厳しいでしょう。階段などは二人並ぶと窮屈に感じるぐらいです。

ありがたいことに休憩処では無料でお茶を頂くことができるので、疲れたカラダを癒して下さい。また、織田信長の家紋「織田木瓜紋」をあしらった小物入れなど、歴史好きにはたまらないグッズが販売されていますので、是非そちらも覗いてみてください!

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掲載内容は執筆時点のものです。 2016/02/21−2016/02/23 訪問

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