ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山河のありがたきかな
盛岡駅前広場は、大きく広がったスペースがあり、待ち合わせにもピッタリの場所。そこで盛岡に到着した人を迎えてくれるのが、歌人・石川啄木(いしかわ たくぼく、1886年〜1912年)の上記の歌が刻まれた石碑です。
“ふるさと山河”とは、岩手山(いわてさん)、姫神山(ひめかみさん)、北上川といった盛岡の代表的な景観を持つ山や川。盛岡駅前から真っ直ぐ進めば、北上川に掛かる“開運橋”があり、木々の緑や鮮やかな花が彩りを添える岸辺と岩手山の雄大な姿に目を奪われることでしょう。
※「石川啄木」の「啄」の正確な表記は、右側・旁(つくり)の左払い三本の中央に「丶」のある旧字体となりますが、閲覧性保持のため新字体「啄」を利用した「石川啄木」としています。
かの時に言いそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
“開運橋”から“旭橋”の間には、北上川の西側の岸辺には「木伏(きっぷし)緑地公園」があり、観光者や近くの方々の憩いの場、散歩コースとなっています。
園内には石川啄木に因んで「啄木であい道」と名付けられた小道も整っています。啄木や妻・節子の歌碑が複数あり、様々な作品と出会い、触れ合えるといった啄木ファンには堪らない散歩道です。
「木伏緑地公園」の大きく開いたスペースには東屋やベンチがあり休憩もできます。その向かい側、北上川を背にしたドッシリと大きな石碑には、上記の歌が刻まれています。
当時の盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)は岩手公園の近く、盛岡市内丸(うちまる)にありました。石川啄木は入学試験で、128名中10番という好成績で合格。
及川古志郎(おいかわ こしろう、1883年〜1958年)や金田一京助(きんだいち きょうすけ、1882年〜1971年)と知り合い、文学へと熱中していきます。
後に及川古志郎は海軍大臣に、金田一京助は言語学者となり、他にも多くの同窓生が活躍していきます。その盛岡中学校の跡地、“岩手医大前”の交差点の片隅には、下記の石川啄木の歌が記されています。
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず
若山牧水(わかやま ぼくすい、1885年〜1928年)は宮崎県日向市に生まれ、後年には富士山や千本松原を愛し静岡県沼津市に移住した、旅と酒を愛した歌人。そして、石川啄木が晩年に最も心を許し合った友人です。
牧水は盛岡を二度訪れており、啄木が好んだ不来方城址(こずかたじょうし、現在の岩手公園・盛岡城跡公園)で、啄木を偲びながら数首の歌を詠んでいます。
もう一人、生涯に渡る友人であった金田一京助の母校、盛岡高等小学校(現在の下橋中学校)の前には、若山牧水と石川啄木の二人の歌が刻まれた石碑が建立されています。
城あとの古石垣にゐもたれて
聞くとしもなき
瀬の遠音(とおね)かな
若山牧水
教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
石川啄木
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
学校を抜け出して城跡を散策したり、文学書や哲学書を読み漁ったりした盛岡中学校時代の石川啄木は、文学に加えて恋愛にも熱中。
その後、徐々に成績を落としていきます。また家計なども含めた複数の要因が重なり最終的に中退。より一層、文学の道へと進んでいくことになります。
岩手公園には、石川啄木の前途洋々といった伸びやかで自由な情感が詠まれた歌が碑に刻まれています。書は友人の金田一京助によるものです。園内の緑や空、盛岡の町を眺めながら歌を読むと、ちょっとしたタイムトリップ気分を味わえますよ。
盛岡周辺には歌人・石川啄木の歌碑や結婚生活をスタートさせた“啄木新婚の家”、詩人・童話作家の宮沢賢治の記念碑なども多くあります。
“盛岡市先人記念館”には同じく盛岡中学校の同窓生で友人の金田一京助を始めとした先人達を顕彰する記念館もあります。
石川啄木が幼少期を過ごし、大人になってからも移り住んだ盛岡市玉山区の渋民には「石川啄木記念館」もあるので、そちらにも足を運んでみてはいかがでしょうか。
詳細については下部関連MEMOにある公式サイトへのリンクから御確認下さい。
以上、盛岡駅〜岩手公園周辺の「石川啄木の歌碑」巡りの御紹介でした。
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(2024/12/6更新)
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