写真:旅人間
地図を見る大阪はかつて“水都”と呼ばれていたのをご存知でしょうか? 実際に、大阪の思い当たる地名を頭に浮かべてみるだけでも心斎橋、淀屋橋、天神橋、天満橋、長堀橋など「橋」の名の付く場所が数多くあり、江戸時代には大阪は「浪華の八百八橋」と呼ばれていました。
現在は、多くの川が埋め立てられて道路となってしまい当時の面影すらありません。心斎橋から5分ほどの場所にある「四ツ橋」交差点は、かつて2つの川が十字に交差し、4つの橋が井の形に架かり、水路とともに繁栄してきた大阪の象徴的な存在だったようです。
四ツ橋の交差点から5分ほど西に歩くと、新町南公園というビジネスマンの憩いの場となっている公園があります。この何の変哲もないごくありふれた公園の片隅に不思議な石碑が立っています。それは…
「ここに砂場ありき」と書かれた石碑。
「え?砂場?どこどこ?」と周囲を見回しても砂場らしき場所はなく、石碑の後ろ側にいっても見当たりません。公園に土はあっても砂という砂すら見当たらない。まるで謎かけのような言葉は一体何を意味しているのでしょうか?
写真:旅人間
地図を見る砂の無い場所に「砂場あり」と書かれた石碑。その答えは石碑の裏に書かれています。
「本邦麺類店発祥の地 大阪築城史跡・新町砂場」
この石碑の裏には、1583年(天正11年)9月に太閤・豊臣秀吉が大阪城築城を開始し、大阪のあらゆる場所が資材置き場になった事、そして、この新町が砂置き場となっていた事から「砂場」と呼ばれるようになった経緯などが記されています。そして人が集まる場所には商いも始まり、麺類店「いずみ屋」や「津の国屋」が1584年には存在した事などにも触れ、ここが日本の麺類店発祥の地と紹介しています。
当時、この付近には長堀川が流れ、ここで記されている砂場以外にも、木材置場、石濱などが川沿いにあり、様々な商いが始まり、多くの人が集まったようですね。川と共に発展していく大阪の様子が見てとれます。
写真:旅人間
地図を見る食通の人なら「麺類店発祥」「砂場」のキーワードだけで、ピーンと来るかもしれませんが、江戸そばの老舗と言えば「藪」「更科」「砂場」は蕎麦御三家として有名ですね。つまり、江戸三大そばの1つの「砂場」は、この大阪・新町がその発祥地だと言われています。
しかし、残念な事に…、大阪には砂場の味を引き継ぐ店は見当たらず、公園に石碑がポツンと置かれているだけとなっています。何だか勿体ないですね。
麺類店発祥の地で何か麺類を食べたいという場合は、公園のすぐ横に「麺寿庵」という蕎麦屋がありますので、ぜひ行ってみて下さい。この店は砂場とは直接関係は無いのですが、タクシーの運転手さんが良く利用するなど地元では人気あるお店なのです。
写真:旅人間
地図を見るこの麺寿庵では、基本的に何を食べても美味しいですが、遠方から大阪に来ているなら鴨肉とネギが入ったダシの効いた「鴨なんば」を食べて帰って欲しい。「鴨南蛮」ではありません!大阪では「鴨なんば」と呼ぶのが一般的なのです。
この料理の由来には諸説様々ありますが、大阪ではこの「なんば」は大阪のミナミの繁華街である難波の意味という説も。昔はこの難波一帯はネギ畑だったそうです。
更にネギの収穫時期の冬には、ちょうど鴨の脂がのって美味しくなる事から、相性の良い料理として古くから人気があったそうです。そう考えると、「鴨なんば」もまた大阪のソウルフードの一つなのかもしれません。
こんな大阪ネタのうんちくを背景に、麺類店発祥の地のすぐそばで「鴨なんば」を食べてみるのも乙なもの。この店ではダシは最後の一滴まで飲んでしまいたくなるほどに奥深く、鴨肉がたっぷり入り、しかも柔らかい。少し歴史をタイムスリップした気分で、近隣の蕎麦屋に入ってみるのもまた一興ではないでしょうか♪
写真:旅人間
地図を見る車の往来が激しい長堀通りの地下には「クリスタ長堀」というショッピングセンター街がありますが、ここは江戸時代の頃は川の底だった場所です。
この地下街の長堀橋駅近くの水時計広場には、江戸時代末期の大阪の街を描いた「浪花百景」が飾られ、この付近では四ツ橋を始め、水路と共に繁栄した大阪の様子を見ることが出来ますので、もしこの辺を歩くときは立ち寄って見てみるのも面白いですよ。
ちなみに、この近くに「きつねうどん」発祥の店もあります。詳しくは下部「MEMO」より参照ください。
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(2024/11/11更新)
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