山上に屹立する高石垣と武骨な櫓群の威容〜松山城〜

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山上に屹立する高石垣と武骨な櫓群の威容〜松山城〜

山上に屹立する高石垣と武骨な櫓群の威容〜松山城〜

更新日:2016/03/28 10:48

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

四国統一間近だった長曽我部元親が土佐一国に封じ込められた四国征伐ののち、伊予に入った加藤嘉明が伊予半国に加増され、石高にふさわしい城を築いたのが松山城です。

慶長7(1602)年に起工。翌年に嘉明が会津へ転封し、蒲生忠知が代わりに入城しても築城工事は続けられ、完成に四半世紀かけたと言われています。本丸への道は複数ありますが、今回は山麓から大手道を通って天守閣に至る往時の王道で松山城を案内します。

本丸へは、かつての大手登城路「黒門口登城道」で

本丸へは、かつての大手登城路「黒門口登城道」で

写真:小谷 結城

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大手道は現在、黒門口登城道と呼ばれています。これは登城道の虎口の門が黒門と呼ばれていたからです。かつての黒門跡を抜けると、すぐ右へ屈曲し、左、右、右、左と5度も折れなくてはならないようになっています。桝形虎口を2つ重ねたような厳重な造りです。

その先に、かつて最大の城門だった槻(けやき)門の跡があり、丁字路になっています。右へ行くと表御殿と奥御殿の建物で犇めいていた二の丸、左へ折れると高石垣の西大砲台を背にしながら、二の丸御殿の横を山頂に向かって歩いていくことになります。

松山城本丸に近い、扉が無くても堅牢な「戸無門」

松山城本丸に近い、扉が無くても堅牢な「戸無門」

写真:小谷 結城

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二の丸を抜けるところも、折れを効かせながらUターンしなくてはならない動線にしています。登城道の山林が深くなってくると、峠道のようなつづら折りです。松山城のそびえ立つ勝山は標高132メートル。裾野は狭く、松山平野にすっくと立っているような具合。つづら折りは急勾配を避けながら山道を登る意図も大きいと思われますが、いかに動線を稼ごうとしているかがよく判ります。

さて、大手門跡をくぐるといよいよ本丸です。大手門前でUターン、抜けてもUターン、さらにUターンをして小さな戸無門を抜けます。非常に厳重な守りです。この戸無門の背後に太鼓櫓があり、攻城側を背後から狙えるようになっているのです。また、写真でも分かるように門のすぐ上にも筒井門西続櫓と呼ばれる櫓が見えます。この2つの櫓で戸無門を抜けようとする攻城側を迎撃する狙いがありました。

松山城名物!「筒井門と隠門」

松山城名物!「筒井門と隠門」

写真:小谷 結城

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戸無門を抜けてUターンすると、手前に見える櫓門が筒井門西続櫓に続く筒井門です。そして右端、写真では見えませんが、東続櫓の張り出しによって隠れているのが隠門になります。筒井門に攻城側が殺到した際、隠門からこれを側面から衝くのです。さらに、筒井門を突破しても門を抜けた先は坂を上がらなくてはならない坂虎口になっているため、頭上より至近距離で攻城側を攻撃できます。

この筒井門をめぐる防御の仕掛けは松山城ならでは。後述する松山城本壇と並ぶ必見のポイントです。筒井門の先には、戸無門を攻める攻城側を背後から狙っていた太鼓櫓と続櫓で結ばれていた太鼓門があり、これを抜けるとようやく本丸に到達します。

天守閣への侵入を阻む過密な櫓群「本壇」

天守閣への侵入を阻む過密な櫓群「本壇」

写真:小谷 結城

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松山城の天守閣といえば連立式天守閣です。天守閣に入るためには、櫓と接続された天守閣下の一の門、二の門、三の門を抜け、天守・小天守・南隅櫓・北隅櫓に囲まれた天守広場に入らなければいけません。一の門から先は、本丸よりさらに高い位置にあり、本丸と分けて本壇と呼ばれます。本壇は櫓が林立し、異常なまでの守りを誇ります。

特に、3方向に櫓が立つ一の門と二の門に挟まれた場所(写真参照)と、4つの櫓が多聞櫓で結ばれている天守広場は、見る限り殲滅必至。とても敵が突破できるとは思えない堅牢すぎる構造です。山上にそびえる高石垣と櫓群。この光景にも驚かされることでしょう。

いよいよ天守閣です

いよいよ天守閣です

写真:小谷 結城

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勝山の山頂で小天守などを連れながらそびえ立つ姿は三層三階でも充分な威容を誇っています。桁行が長く、下見板張りを備えた武骨な天守閣の姿からは最後の最後まで徹底抗戦を行う戦意さえ感じられます。

かつての天守は五層六階の威容を誇っていましたが、谷を埋めた不安定な地点にあったために天守が傾斜を始め、松山藩の象徴たる天守閣が倒壊してしまったら藩の威信にかかわることから、表向きは「天守の威容が壮大過ぎるため幕府に配慮した」という理由で建て直しました。

現在の天守は、落雷による焼失ののちに復興された安政元(1854)年落成のものです。幕末の建築になりますが、忠実に再現されており、戊辰戦争に使用される可能性のあった紛れもない現存天守です。本丸周辺の建築物の多くが現存であり、これも松山城の凄さです。

山上の石垣の上に櫓が並び、質・量ともに他の多くの城を圧倒します。搦手にあたる乾門とこれに続く櫓(ともに昭和57(1982)年の復元だが)や花崗岩を累々と積んだ石垣なども見事です。自然の地形に抗うことなく、戦国の武骨さと非対称をあわせ持った実用的な破調の美がここにあります。

※写真は、一の門前からの天守閣です。

松山城は日本屈指の名城です

今回は黒門口登城道より天守閣を目指すルートで紹介しましたが、他のルートを歩けばまだまだ他の見どころとも出合えます。

例えば、二の丸の南側から本丸に向かう県庁裏登城道を歩けば、二の丸と本丸を結んで山腹から城内に敵が侵入することを阻んだ「登り石垣」が見られます。山麓には水堀に囲まれた方形の三の丸も残り、本丸の搦手にも大手とは異なった堅い守り工夫も見られます。

城域が山頂から平地部にまで及ぶ「平山城」にあたる松山城。城を守る多彩な防御施設や工夫が楽しめ、堅牢さも日本屈指。現存建築物まで残るこの城は、日本でも指折りの名城と呼べるでしょう。必見です。

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