かつては伊予の中心。街に残る古城の味わい〜松山・湯築城〜

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かつては伊予の中心。街に残る古城の味わい〜松山・湯築城〜

かつては伊予の中心。街に残る古城の味わい〜松山・湯築城〜

更新日:2016/04/22 13:15

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

愛媛県松山市。ここで城といえば、誰もが挙げるのは山上にそびえ立つ松山城です。近世に建てられた現存城郭であり、いかにも城らしい風格を備えています。しかし、松山市街にはもう一つ城があります。それが道後温泉のすぐそばにある湯築城です。

松山城のように建築物は残されていませんが、水堀や土塁など多くの遺構を残し、今も当時の縄張を留めています。中世の居城では珍しい平地の城の遺構を湯築城で見てみましょう。

湯築城の特徴と、かつての追手口

湯築城の特徴と、かつての追手口

写真:小谷 結城

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湯築城とは、中世の伊予国の守護であった河野氏の居城です。南北朝時代の初期に築城されてから、河野氏が豊臣秀吉に降伏して廃城となるまで約250年間存続しました。

さて、湯築城は中心に丘陵を持つ不思議な円形をした平地の城です。円形にしたのはとことん死角を無くした結果と思われます。中世城郭の多くは山上に築かれたために城の縄張はそのまま山の形に委ねられ、近世の城郭の大部分は石垣を曲線に加工できなかったために方形の曲輪を組み合わせたものがほとんどでした。

まだ石垣の無い中世、平地で城を築いた平城の場合にどのようにすれば堅牢な城となるかを考えた末に行きついた姿がここにあります。このように考えれば、湯築城の貴重さがお分かりいただけるでしょう。

湯築城の正面入口にあたる追手口は東です。こちらから入り、時計回りに歩いて搦手口の西へ抜けると城内の一通りの見どころをめぐることができます。城の正面なので門はありましたが、まだ虎口には水堀以外に動線を増やしたり、明らかに見通しを悪くしたりするような工夫は見られなかったことが分かります。

外堀土塁と遮蔽土塁で守ります

外堀土塁と遮蔽土塁で守ります

写真:小谷 結城

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追手門には防御の工夫が特に見られませんでした。しかし、城内に入るとすぐに防御の工夫を発見できます。これが外堀土塁です。土塁とは土を盛った防御施設のことで、外堀土塁は外堀の内側に土手のように築いて城外から城内の様子が分からないようにする一方、城内へと攻め込もうとする敵に対して城内の高所から攻撃できるようにしたものです。写真左の斜面が外堀土塁にあたります。

また、要所には外堀土塁とは別に城の内側にも土塁を築き、2つの土塁で通路を狭めていました。内側の土塁には遮蔽土塁という名があります。丘陵を取り巻くように廻らされた内堀がここまで延びて遮蔽土塁と接続し、さらに防衛機能を高めています。

城内の南側には上級武士の居住区があり、たとえ追手門を突破されてもこれ以上は侵入させないよう、より強固な守りを施したと考えることができます。

鑑賞しながら宴会もした?内堀と岩肌の美景

鑑賞しながら宴会もした?内堀と岩肌の美景

写真:小谷 結城

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遮蔽土塁の先に出ると、広い空間に出ます。上級武士の居住区です。ここには、細い川のような排水溝が廻らされ、池や礎石があり、内堀付近には土坑と呼ばれるごみ捨て場が復元されています。そして、内堀の先、丘陵の壁面には美景です。

豪快な岩肌が露出し、隙間からは松。名庭と謳われるような池泉を擁する日本庭園にも遜色のない風流な景色です。向かいの土坑には土器の皿や杯、備前焼、丹波焼、中国陶磁器も出土されており、美しい岩肌を眺めながら宴会が行われたと推測されます。中世の人々の生活が妙に真実味を持って想像できる愉しい空間です。

武家屋敷を復元した家臣団居住区

武家屋敷を復元した家臣団居住区

写真:小谷 結城

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上級武士居住区の西は家臣団居住区になります。礎石や当時の資料から武家屋敷が復元されており、ある武家屋敷は長方形の間取りを土間、主室、台所、納戸の4室に分けていたことが分かります。当時の武士の暮らしぶりが想像できるのも嬉しいです。

また、内堀の外側には、内堀を掘った土で盛られた内堀土塁があるのも上級武士居住区と異なる家臣団居住区の特徴です。内堀土塁は無論、丘陵への守りを高めるためのものです。

なお、丘陵部には城主河野氏の館のあった曲輪や、近世城郭の本丸にあたる本壇がありました。現在の丘陵部に当時を想像できるものはほとんどありませんが、丘陵部の各曲輪も比較的当時の形を留めているように思われ、こちらも見る価値があります。

おまけに湯釜も

おまけに湯釜も

写真:小谷 結城

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道後城跡の北側は当時の状態をあまり留めていません。しかし、その代わりに面白いものがあります。それが湯釜です。花崗岩製で石臼にも似た円柱形をしています。浴槽の湧出口に設置され、明治27(1894)年まで使用されていました。製造は驚くほど古く、奈良時代天平勝宝年間(749〜757)。近世でも中世でもなく、古代の代物です。

また、湯釜上部の宝珠に見られる南無阿弥陀仏の六字名号は一遍上人によって刻まれたものと言われています。湯釜は湯築城のものではありませんが、こちらも松山の歴史を伝える非常に貴重なものには変わりありません。

中世を想像してみましょう

松山城や松山の繁華街・大街道から路面電車に乗って道後温泉に向かう折に見えてくる、こんもりと緑の茂る湯築城。江戸時代には機能を松山城に移されて廃城となりました。まさしく中世に生き、近世の突入とともに消えてしまった城とも言えそうです。

しかし、幸いなことにその遺構はそのまま残されていました。そして、昭和62(1988)年に発掘調査が行われ、城内の様子が次々と明らかになったのです。湯築城は国指定史跡に指定されていますが、これは湯築城の貴重さが同じく国指定史跡の松山城と同格の歴史的価値・学術的価値を有することを示す証左です。

中世の武士の生活を偲び、近世城郭の松山城と比較し、古代より伝わる湯釜とも出合うことのできる、松山で一見の価値ある名所です。

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