写真:Naoyuki 金井
地図を見る『岩室観音』は810〜824年に建立されたと云われ、1200年以上の歴史があります。弘法大師空海が、岩をくりぬいて高さ36.4cmの観音像を彫刻して岩窟に納め、名称を岩室山と号したのが始まりです。
室町時代に扇谷上杉の部将上田氏が建てた松山城(埼玉県吉見町)の城主が代々信仰護持していたのですが、秀吉の関東出陣の際の松山城落城と同時に堂宇のすべてが焼失しました。
現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に再建されたもので、近くにある龍性院の境外仏堂となり、比企西国三十三ヶ所の三番札所となったのです。一見、山門の様に見えますがこれ自体がお堂で、京都清水寺の観音堂と同様の“懸造り様式”という江戸時代では珍しい建築方法によるもので、吉見町指定の文化財です。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る四国八十八ヶ所は、弘法大師が開いた霊場を巡礼する信仰で約1000年の歴史があると云われています。西国・坂東・秩父の百観音霊場を巡るのは『札所めぐり』と云い、四国八十八ヶ所は『遍路』と呼ばれて区別されています。
江戸時代は四国に行くのもままならない交通事情ですから、各地に八十八ヶ所の霊場に祀られた本尊を模した88体の仏を祀って遍路していました。ここにも88体の石仏があり、1階の左側には1番〜51番、右側には52番〜88番の石仏が岩窟の中に祀られており、ここを参拝すれば四国八十八ヶ所のご遍路と同じ功徳があると云う、とてもコンビニエンスな有難いものなのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る比企西国三十三ヶ所三番札所として参拝するには階段を上がった2階へ。心もとない急な階段もいささか怖いのですが、2階の床の所々には隙間があるので高所恐怖症の方はご用心してください。ご本尊は階段を上がって右側に祀られており、木枠で仕切られていますが、いにしえ同様岩窟の中に祀られています。
戦国末期秀吉軍によって焼失した建物ですが、奇跡的に本尊だけは岩窟内に無事であったということから霊験あらたかなのは云うまでも無いでしょう。ここには一枚一枚に般若心経の276文字の一文字づつが書かれた折り紙があり、この折り紙で鶴を折って祈願するのです。
その他、この2階には大願成就した御礼の奉納絵馬がありますが、馬の顔がいくつも描かれた珍しい絵馬もあり、可愛らしさと興味深さと不気味さが混在した摩訶不思議な観音堂なのです。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る参拝が済んだらそのまま裏側に抜けましょう。左側に鎖の付いた崖があり、この鎖を頼りに崖を昇ると人がかがんでやっと通れるくらいの穴が開いています。これが『胎内くぐり』で、安産のご利益があると云われています。国内には多くの胎内くぐりがあり、基本的な概念は、女性の胎内に模してそこを通過することで生まれ変わるためのシステムなのです。
かなり急な崖で「安産祈願に妊婦がこの崖を上り下りるのか!」と無謀とも思える胎内くぐりですが、それだけ昔の方達は気丈だったのでしょう。そんな危険とも思える胎内くぐりが妙に人気となったのがその形状で、“ハート型”の穴であることから、いつの間にが安産祈願が縁結び祈願に変わった《ハートの胎内くぐり》なのです。
グループやカップルで訪れてキャアキャア云いながら潜るのも、現代ではアクティビティなんでしょうか。
写真:Naoyuki 金井
地図を見る胎内くぐりを終えて時間と体力のある方は、その先の急坂を上がってみましょう。そこからがこの岩室観音を護持していた『松山城跡』です。松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた平山城で、大正14年に県指定史跡になりました。本曲輪を始めとして平場や空堀などが非常に良い状態で残されており、現在は平成20年に菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに《比企城館跡群》の一つとして国の史跡に指定されたのです。
最近では城ファンの方が多く訪れていますが、城や城跡に興味の無い方でも、季節の時期は自然や景観も楽しめるので軽くハイキングがてら歩くのも良いでしょう。岩室観音からでなく、別ルートでも松山城跡には登ることができますので、運動不足のあなたはちょっとチャレンジしてみてはいかがですか。
ディープな岩室観音ですが、丁度、同じ国の史跡である『吉見百穴』と『松山城跡』の間にあるので、考古学ファンなら吉見百穴→岩室観音→松山城跡と辿り、城ファンなら逆ルートで巡ると良いでしょう。
埼玉県吉見町を代表する観光名所に一度足を運んでみてはいかがですか。
なお、吉見百穴についても関連情報でご紹介しています。
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(2024/3/28更新)
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