写真:いなもと かおり
地図を見る大坂城は、商人の街として大阪を発展させた豊臣秀吉が築いた城として知られています。ですが、現在みなさんが目にしている大坂城は、秀吉の築いた城ではないということをご存知でしょうか?
慶長20(1615)年「大坂夏の陣」の後、豊臣氏は滅亡し、勝利した徳川家康は秀吉の築いた大坂城を埋めその上に城を築きました。太平洋戦争の空襲被害にも遭ってしまいましたが、現在残っている石垣や水堀、櫓などは徳川期大坂城のもので豊臣期大坂城の面影はありません。
ちなみに、大阪の「阪」という漢字は明治になってから定着したもので、築城時は「坂」という漢字を使用していました。天守は昭和になって建てられたコンクリートの復興天守ですが、櫓、門、蔵など13棟と、石垣、水堀などの遺構が残っているため、歴史好きの間では「大坂城」と呼ぶ方が多いです。
天守は「城」を構成する光り輝くひとつのピースにすぎません。
昨年までは年に3日ほどしか実施されていなかった内部公開ですが、NHK大河ドラマ「真田丸」の放送を記念して、初めての長期公開を行っております。
写真:いなもと かおり
地図を見る多聞櫓は大坂城の玄関口「大手門」に建てられた櫓です。有事の際には侵入してきた敵を枡形をした四角い空間に閉じ込め、四方八方から銃を打ち込んで一網打尽にします。入り口の正面に聳り立つ多聞櫓はとにかく巨大で、実用性の他に威圧感という効果も与えます。
この多聞櫓は一度焼失してしまい嘉永元(1848)年に再建されたものです。現存する同種の櫓の中では最大規模で、高さは14.7メートル。明治維新の動乱や太平洋戦争の空襲にも免れてきました。
多聞櫓には、戦の際に兵士が籠城することを想定して、渡櫓から数えて合計6つの寝泊まりをする部屋が用意されています。
写真:いなもと かおり
地図を見る大手口多聞櫓の背後にて、大手に侵入しようとする敵を側面から攻撃する役目の「千貫櫓」は元和6(1620)年に築かれました。
実は特徴的な千貫櫓。格式の高い天守や御殿にしかない唐破風を施したり、荷揚げ装置(明治以降に作られた可能性もある)があるなど、他にはない構造をしています。特に注目すべきは床! ミノで削られたようなボコボコとした跡がわかります。滑りにくいようにするなどの工夫なのですが、他の城の現存櫓でもこれほどハッキリと残っている例はあまりありません。普段は公開しないため残りも良いのだとか。歴史遺産を大切にしながら、鑑賞したいものですね。
写真:いなもと かおり
地図を見る日本に昔の姿のままで残る現存天守は12城しかありません。それよりも希少価値が高いのが大坂城の焔硝蔵です。なんと、現存でも江戸時代の姿のまま残っているのは全国でもこの1棟のみ。
「焔硝蔵」はその名の通り、火薬を納めた蔵です。かつて城内にあった別の火薬庫が爆破し、その破片は奈良まで飛んだという言い伝えが残るほど大規模なものでした。この経験もあり焔硝蔵は厳重に造らねばなりませんでした。壁、天井、床の全てを石造りにした蔵は他に類がなく、入り口も三重構造となっており引火や湿気からも火薬を守ります。
写真:いなもと かおり
地図を見る豊臣期の大坂城は徳川期大坂城の下に眠っています。政権交代の印として、前の統治者よりも大きくて立派な城を築くことが重要だったのです。
そんな豊臣期の城の名残を感じられる場所があるのが、大阪城公園の北西にあるドーンセンターの傍ら。石垣が移築復元されております。
自然の石のまま積まれた「野面積み」の石垣には、石を割る際にできた痕跡「矢穴」も確認できます。日本一の高石垣と称される徳川期大坂城の石垣は、新しい技術の「切込みハギ」で石が加工され、文句のつけようのないほど立派で大きさもありますが、豊臣期大坂城の石垣も当時ではプロの石積み集団が積んだ最先端技術の石垣になります。
2つの時代の面影と、技術の発展を目の当たりにするチャンスですので、ここもお見逃しなく。
大坂城の楽しみ方はいかがだったでしょうか?2016年の1月9月から6月5日の公開は、月曜日は定休(月曜日が祝日の場合は翌日)となっておりますのでご注意ください。
実は、夏と秋の公開も予定されております。
【夏】2016年7月16日から8月28日(月曜日定休)
【秋】2016年9月17日から11月27日(土日祝のみ公開)
滅多に見ることができない内部特別公開と、あまり知られていない豊臣期大坂城の遺構を見れば、これであなたもお城ツウ! 誰かに自慢したくなるようなコアな大坂城を楽しむならば、特別公開に合わせて訪れるのがオススメです。
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(2024/12/2更新)
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