写真:井伊 たびを
地図を見る真言宗豊山派「徳満寺」は、元亀年間(1570年〜1573年)に祐誠上人が中興した寺で、当初は今の門前に建てられていのだが、この地を治めていた豊島氏が慶長の乱(1600年)で滅ぶと、その城址(現在の地)に寺は移された。
当寺の本尊は、身の丈七尺三寸(2.2m)もある「木像地蔵菩薩立像」で、年に一度御開帳される。江戸満願寺より勧請した、利根町指定有形文化財でもある、この地蔵菩薩は、「子育て地蔵」とも呼ばれ親しまれている。
また、毎年11月下旬の一週間だけの御開帳時期にあわせ、その週末の土・日曜日に、境内で行われる「地蔵まつり」は大勢の人々で賑わう。
写真:井伊 たびを
地図を見るこの客殿の入り口から進み行けば、左手頭上に「間引き絵馬」が掲げられている。見上げれば、ただ!ただ!絶句する。
ところで、真言宗の教義は、「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」と「蜜厳浄土(みつごんじょうど)」である。そもそも、「即身成仏」とは、この身このままで仏になること。一方「蜜厳浄土」とは、この世を浄土にすることである。
「間引き絵馬」に絶句するだけでなく、心にその真言宗の教義を反芻してみるのもいいのでないだろうか?つまり、「仏の様な心で、仏の様に行い、仏の様に語れば、私達の生活は自ら浄らかになり、この身このまま仏となり、この世は浄土となる」である。
写真:井伊 たびを
地図を見るここ利根町は、日本民俗学の父とも呼ばれる・柳田國男(1875年〜1962年)の第二の故郷でもある。彼は、兵庫県の福崎町で生まれたのだが、13歳の時から養生のため、この地で開業医をしていた兄のもとで、二年あまり過ごした。
この間、「徳満寺」でこの「間引き絵馬」を見たことが、後に民俗学に進む元になったとされている。彼は後に「約二年間を過ごした利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの川畔に地蔵堂があり、誰が奉納したもであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである」と語っている。
「その図柄は、産褥の女がはちまきを締めて、生まれたばかりの嬰児を押さえつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今でも覚えている」とも語っている。
「間引き」とは、端的にいって「口減らし」である。
母親が自ら産んだばかりの赤ん坊を力いっぱい押さえつけなければならないほど、追い詰められる「飢饉を絶滅しなければならない」という気持ちが、柳田國男少年の心に芽生えたのだろう。そして彼をより学問の道へ駆り立てたのだろう。
写真:井伊 たびを
地図を見る「客殿」入口の軒下は見事な細工が施されている。この匠の技もしっかりチェックしておこう!
写真:井伊 たびを
地図を見る境内には、日本最古の「十九夜塔(じゅうくやとう)」がある。かつて、日暦十九日の夜、寺や当番の家に集まって、如意輪観音(にょいりんかんのん)の前で般若心経や和讃を唱える行事(十九夜講)があった。これは、特に茨城や栃木などで盛んに行われていたとされる。この「十九夜塔」は、万治元年(1658年)のものであり、今見つかっている中では日本最古の石塔である。
普段「客殿」の入り口には鍵がかけられています。「間引き絵馬」をご覧になりたい方は、庫裏にお声をかけさえすれば見せていただける。
また「徳満寺」の近くにある「柳田國男記念公苑」にも、お立ち寄りになることをお勧めする。「記念公苑」は、柳田國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等が展示されている。(この記事下の関連MEMOの利根町公式ホームページをご参照のこと)
この記事の関連MEMO
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(2024/9/18更新)
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