写真:乾口 達司
地図を見るかつて「長寸神社」と記された苗村神社の読み方は「なむらじんじゃ」。祭神である那牟羅彦(なむらひこ)と那牟羅姫(なむらひめ)は当地開拓の神(産土神)であるとされており、その名称からも苗村神社の名の由来となった神々であることがうかがえます。
では、当地がなぜ渡来人ゆかりの地であるといえるのでしょうか。その鍵は『日本書紀』や『古事記』のなかの記事にあります。『日本書紀』によると、垂仁天皇の時代、朝鮮半島から新羅国の王子・天日槍(あめのひぼこ)が渡来したとのこと。天日槍は西日本各地をめぐった後、但馬国に定住しますが、その途上、「菟道河」(宇治川)をさかのぼり、「近江国吾名邑」にもしばらくとどまったと記されています。この「吾名邑」(あなむら)こそ苗村神社を中心とする一帯であったと考えられているわけです。そういわれると、苗村神社の祭神のうち、那牟羅彦が天日槍と重なって来ませんか?
苗村神社には、東西2つの本殿があります。写真は国の重要文化財に指定されている東本殿。東本殿が当地にさまざまな先進文化を伝えた天日槍の子孫たちによって建立されたかも知れないと思うと、歴史のロマンを感じることでしょう。
写真:乾口 達司
地図を見る東本殿の周辺には、確認されているだけでも8基の古墳が点在しています。写真は東本殿と向かい合う位置にある円墳。当地が古代から開けていたことがここからはうかがえますが、これらの古墳には、ひょっとしたら天日槍の子孫たちが眠っているのかも知れませんね。
写真:乾口 達司
地図を見る写真は西本殿。建保5年(1217)に修造されたのを徳治3年(1308)に再建したもので、流造の最古級の作例であることが認められて、現在は国宝に指定されています。ちなみに、こちらには、安和2年(969)、大和国・吉野の金峯山から移って来た國狹槌尊(くにのさつちのみこと)が鎮座しています。
写真:乾口 達司
地図を見る苗村神社で、もう一つ、見逃せないのが、国の重要文化財に指定されている写真の楼門。各所にほどこされた意匠から、応永年間(1394〜1427年)の建立と考えられています。なかでも、印象的なのは茅葺きの屋根ゆえに上部が大きく張り出し、重量感があるのに対して、下部が開放感に富んでいること。その対比が独特の存在感をかもし出しており、境内に点在する建造物のなかでもっとも印象的なものとなっています。その独特の意匠もご堪能下さい。
写真:乾口 達司
地図を見る境内には、ご覧の収蔵庫も立っています。その内部には国の重要文化財にされている不動明王立像が安置されています。像高は96.9センチメートル、鎌倉時代の作であり、かつて境内に存在した苗村宮庵室の護摩堂の御本尊であるとされます。いわゆる当社の神仏習合時代の名残を伝える仏像ですが、常時、公開されているわけではないので、拝観を希望する方は社務所に問い合わせてみましょう。
苗村神社の豊かな歴史と貴重な文化財の数々、ご理解いただけたでしょうか。天日槍が伝えた古代の先進文化に思いを馳せながら、苗村神社ならではの文化財の数々をご堪能下さい。
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この記事を書いたナビゲーター
乾口 達司
これまでは日本文学や歴史学の世界で培った見識にもとづいて数多くの評論や書評を執筆してまいりました。奈良生まれ、奈良育ちの生粋の奈良っ子。奈良といえば日本を代表する観光地の一つですが、地元民の立場からい…
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