北根本、中津川には舟塚山古墳や府中愛宕山古墳など、25基の古墳が確認されている舟塚古墳群が広がっています。霞ヶ浦に舟を乗り出す形から府中愛宕山古墳を「出船」、舟塚山古墳を「入船」、と呼ばれていました。
舟塚山古墳は、全長186メートル、後円部径90メートル、前方部幅99メートルの前方後円墳。その規模は、茨城県最大、東日本でも2番目の規模。被葬者は、茨城国造(くにのみやつこ)筑紫刀禰(つくしとね)と伝えられていますが、判明していません。
舟塚山古墳は、数少ない調査資料と、墳形が日本最大の仁徳天皇陵古墳と共通の特色を持つことから、同年度の築造と推定されています。仁徳天皇陵古墳と同じ時代に前方後円墳で葬られた被葬者は一体どのような人物だったのでしょうか。数多くの謎を秘めた古墳です。
霞ヶ浦沿岸は、住みやすく石岡市では縄文時代から古墳時代の遺跡が数多く発掘されています。東田中周辺の遺跡や貝塚からは、ハマグリやマガキ、サルボウガイなどの海の貝類が見られ、タイやイワシと思われる魚類も発掘されています。また、海水を煮詰めるために作られた薄手の製塩土器や炉跡も発掘されているので、古くから栄えた場所だと考えられます。
奈良時代には、全国で70の国と600の郡があり、これらの国と郡には、国府、郡衙の役所が置かれ、鎮護国家を祈るため、国分寺(金光四天王護国之寺)と国分尼寺(法華免罪之寺)が置かれました。国分尼寺は全国でも遺跡不明なものが多いのですが、常陸国分尼寺は、中門、金堂、講堂の基礎が保存され、全国的に貴重な遺跡です。
直線状に中門跡、金堂跡、講堂跡があり中門と金堂は回廊で結ばれています。建物の配置は国分寺と同様で、出土した遺物は国分寺跡と同型の物が多く尼寺の判明が難しいなか、「法華」と墨書銘のある土器が出土され証明されました。跡地の回廊、金堂跡、講堂跡を廻るとその規模の大きさに驚きます。
国府とともに設置された国分寺と国分尼寺。「国分寺建立の詔」に、「国分寺には僧20人、尼寺には尼僧10人を置くこと」が定められた創世記の日本では、どのような政が行われていたのでしょうか。跡地だけが残された国分尼寺を見ていると想像は尽きません。
常陸国分寺の伽藍は東西に約270メートル、南北に240メートル、全国の国分寺の中でも最大級と推定されています。伽藍の中は、中門、金堂、講堂が直線に並び、中門と金堂は回廊が渡されていました。現在は、後継寺院の真言宗智山派の常陸国分寺になっています。
古代の国分寺は、平将門の乱や、その後の戦によって焼失し衰退していきました。無住となった国分寺は府中にあった千手院と合併し現在の常陸国分寺が設立されました。境内に入ると道が2つに分かれています。左手を進むと茅葺の旧千手院山門があり、その奥に本堂があります。この本堂は、千手院の筑波四面薬師の1つを移築したものです。
もう1つの道を行くと、右手に弘法大師堂、その先に本尊が安置されている薬師堂があります。ここが、古代の国分寺金堂の位置で、薬師堂裏に講堂跡があります。薬師堂と講堂跡の位置から国分尼寺跡の配置を重ね合わせると広大な規模が思い浮かびます。
鹿の子C遺跡は、国分寺、国分尼寺の北西側にあり、常磐自動車の建設に伴い調査されました。調査の結果、官衛ブロックと住居・工房ブロックが溝によって区画され計画的に配置されていることが判明しました。
遺跡は、竪穴住居跡206軒、連房式竪穴遺構5軒、堀立柱建物33軒、工房跡33軒、出土した遺物は、多数の土器や武器や、武具、農具、鉄製品、銅製品、木工具などが出土されました。また、漆紙に書かれた、戸籍や人工集計文書など約300点が明らかになり、当時の常陸国の人口が22万〜24万人と推定されています。
鹿の子C遺跡は蝦夷征討のための武器制作をする兵站基地であり、8世紀後半〜9世紀後半まで運営され10世紀前後に終焉されたことが判明しています。石岡に建立された、国府や国分寺、国分尼寺。そこには、蝦夷征討のための兵站基地もありました。発掘調査で発見された遺跡は「常陸風土記の丘」で復元されています。
「ふるさと歴史館」は常陸国府跡地にある石岡小学校敷地内にあります。旧石器時代の二子塚遺跡や、宮部遺跡のパネルと出土された、石斧や土器を始め、舟塚山古墳、常陸国府跡、国分寺、国分尼寺や、江戸時代の府中宿、明治時代に石岡で盛んに生産されていた醤油醸造の歴史がコンパクトに展示されています。
「常陸風土記の丘」は石岡市染谷にあります。風土記とは、和同6年(713年)に地方の状況を国ごとに集約し、元明天皇に報告した記録書、現存するものは、常陸、播磨、出雲、肥後、豊後の5ヶ国だけ。「常陸風土記の丘」は、古風土記に因み、名付けられた歴史公園。園内にある展示館は、室内の展示室と野外展示広場に分かれています。
展示室は、縄文時代〜古墳時代に営まれた、宮平遺跡や外山遺跡、舟塚山古墳、奈良時代〜平安時代の国府、国分寺、国分尼寺、鹿の子遺跡などの、パネルと出土した土器や瓦が展示されています。
野外展示は、再現された「地蔵窪貝塚」や、縄文、弥生時代の竪穴式住居や、鹿の子遺跡の調査結果から復元された、連式竪穴住居や工房、武器製造所や加工場、書庫や倉庫などが展示され、復元された遺跡を目の当たりに見ることが出来ます。
「常陸風土記の丘」は、展示館の他に、ちびっ子広場や、ふれあい広場、森林公園や、キャンプ場、獅子頭展望台などもある、石岡市の歴史が学べ、楽しく遊べる歴史公園です。このほかに、ソメイヨシノや、垂れ桜、ツツジ、アジサイや、アヤメ、大賀ハスなど四季折々の花も楽しめる公園です。
また、「ふるさと歴史館」には、再現された、常陸国分寺の模型が展示され、国分寺や国分尼寺跡で見たものを実感することが出来ます。
「1万年の歴史を体感できる里」それが茨城県石岡市です。貴方も古代ロマンに触れ合ってみませんか。
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(2025/1/17更新)
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