JR備中高梁駅を東口より下車すると早速、奇抜なものが見えます。平地と山の境目に築かれた4段の石垣です。一切櫓台は無く、2段目に墓地、3段目に鐘楼、最上段に防衛機能を持たない平屋の入母屋造の建物が見えるので、これらから正体が寺院だと分かるものの、段々状の石垣だけを見れば城以外の何物でもないのです。
駅から見える石垣は松連寺と泰立寺です。見た目通り、砦となるように築かれたもので、このうちの松連寺によりその特徴が出ています。入口から2段目まではまっすぐ石段が延びていますが、3段目に上がる際に右に折れ、最上段に上がる際に左に折れるようになっています。これは外桝形虎口と呼ばれる、まさに城の構造です。
最上段の建物は本堂。入母屋造、黒の釉薬瓦を葺いた本瓦葺きの本堂は蟇股、木鼻、手挟彫刻もよくできています。本堂の右にある観音堂には、岡山城主・宇喜多秀家の御座船の格天井と船戸もあります。
駅からやや北へ行くと、高梁市郷土資料館があります。明治37(1904)年に建設されたかつての高梁尋常高等小学校です。屋根は桟瓦葺き、壁は淡い黄緑色をした下見板張りになっており、ポーチのユニークな曲線を持つ屋根や、2つのドーマーウィンドウ(屋根窓)が特徴です。
館内はいかにも昔の小学校の趣。電話交換器、多様なランプ、蓄音機、教科書、玩具、柱時計…。江戸期から昭和期にかけて使用された様々なものを展示しています。建物は備中松山城がそびえる臥牛山のモミを使用し、無節柾目の良材で施工されました。「無節柾目」は、2階の講堂の二重折上げ格天井を見るとよく分かります。
さて、格天井といえば座敷などの格式の高い部屋に用いられる天井で、折上げ格天井はさらに格式が上がります。二重折上げ格天井にまでなると、本来は将軍の座する上段の間などにしか用いられません。それがなぜ学校の天井に用いられているのでしょうか。
それは、教壇の後ろに奉安殿があるからです。戦前、天皇・皇后のご真影と教育勅語を納めた奉安殿が各学校の講堂や校長室などにありました。この天井は奉安殿があるためであり、GHQの指令によって多くが解体された現在にあって、奉安殿と二重折上げ格天井が現存しているという点でも非常に貴重な建物なのです。
江戸期以来の町屋や蔵が残るのは城下町を南北に貫く本町(ほんちょう)通りです。慶長5(1600)年よりこの地を領した小堀正次・政一(遠州)親子による城下町づくりで本町は誕生しました。そして、寛永19(1642)年に5万石を与えられて入城した水谷氏の時代に高瀬舟の発着場を設けたことで経済活動の中核拠点となりました。
上流へ向かうにも下流へ行くにも必ずこの中継地に寄り、荷直しを行わなければならない「継ぎ舟制」というものがありました。この制度のおかげで町が繁栄し、明治期までこの高瀬舟が高梁で主要な交通機関として機能していたのです。
通りの中央には、無料休憩所になっている高梁市商家資料館・池上邸があります。小間物屋に始まり、高瀬舟の船主や両替商などを経て財を築き、明治期に醤油醸造業を営みました。千本格子や漆喰壁、掲げられた看板などに歴史を感じられます。
本町通りと概ね並行して走る山手側の道に高梁の名刹・頼久寺があります。こちらの寺院も砦仕様になっており、入口から山門までは石段を登って左、右とクランクに折れて入る、松連寺同様の外桝形虎口の形式です。
庫裏から上がり、本堂を経由した先の書院より庭園と対峙します。生成色の白砂を敷き、隅々まで描かれた砂紋。その中央に築山をつくり三尊石組を置いて鶴島とします。その後方、段々状に刈り込まれた灌木の下にも築山をつくり、亀が低くゆったりと泳ぐ姿になるよう石が組まれています。
庭園は生垣によって空間を完結させられていますが、背後の愛宕山とこれに連なる山稜はこの生垣の高さを凌駕し、程よい高さで借景となっています。これも計算されたものでしょう。日本庭園でありながら西洋庭園で多用される技法の刈込がよく用いられているのが西洋からも技法を学んだ小堀遠州流の庭園の特徴の一つです。
いかにも日本的な風情を醸しながら、実際は日本オリジナルの庭園ではない。こんな面白さも秘められている庭園はやはり名庭です。
城下町の北にそびえる臥牛山。これの一座をなす小松山の山頂に松山の城、備中松山城があります。備中松山城は鎌倉時代の砦に始まり、数々の領主の交代とともに次第に拡張されました。山頂へと続く登城路は市街の北の端です。
備中松山城へは山登りの装備がおすすめで、靴はできれば登山靴。少なくとも運動靴でないと非常に苦労します。それだけに、城郭部に到達したときの石垣の壮大さには圧倒されます。岩盤がしばし露出する急な斜面を持つ山に、ある程度の平地を複数つくり、ここまで運んできた自然石の石垣で斜面を律儀に覆っている様には、築城の執念が感じられます。
石垣でつくり出された城郭部の構造は非常に堅牢で、この構造も不規則に剝き出した岩盤と相談し、地面の堅さ、地勢も読みながら造られたものです。天守は水谷時代に築城された二層二階の現存天守。明らかに戦を意識した石垣群に対して、天守をはじめとする建築物は権威重視であったことが窺えますが、床下に石を入れて忍びも侵入できないようにした落城時の一家の死に場所になる装束の間などの見どころもあります。
中世より次第に拡張された備中松山城には江戸期より現存の天守がそびえ、寺町には武将でありながら茶人や作庭家として名を高めた小堀遠州の庭園が残り、明治期に建てられたかつての学校は資料館として健在です。江戸期以前より要衝の地として注目され、江戸期に城下町をなして高瀬舟で明治期以降も繁栄をしてきました。
山城や借景を生かした庭園、舟運に木材。高梁を歩くと、各時代の人々が自然をうまく生かすことでこの地の発展に貢献してきたことが分かります。自然の力を味方に付けた山紫水明の城下町・高梁はただならぬ魅力を秘めています。
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