JR身延駅からバスで身延山バス停まで。総門をくぐり、土産物店の並ぶ参道を抜けるとまず現れるのがこちらの三門です。最初に建築されたのは寛永19(1642)年。幕末期に焼失したのち、明治40(1907)年に再建されたものが現在のものです。高さ21メートル、間口は廊門までを含めると42メートルに及ぶ壮大な門で、関東三大門の一つに数えられます。
三門からまっすぐに歩くと眼前に見えてくるのが、本堂へと続く287段の石段・菩提梯です。寛永9(1632)年に完成されたもので、高さは104メートル。1段1段が高くつくられており、そそり立つような姿です。段数から想像するよりもずっと体力が要るきつい石段になっています。
菩提梯とは悟りに至る梯(きざはし)のことで、登りきることが涅槃に達し、悟りの悦びとなることを意味しています。南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画に分けられています。
なお、脇には男坂・女坂もあり、足腰に自信のない方は坂を選ぶと良いでしょう。
菩提梯を登りきって真正面に見えるのが本堂です。文明6(1474)年に建立されましたが、明治の大火によって焼失。昭和60(1985)年に木造仕上げでようやく再建されました。
間口32メートル、奥行51メートルの堂々たるものです。外陣の天井には巨大な龍の絵「墨龍」が描かれており、内部も必見です。本堂の地階には宝物館もあります。日蓮直筆と伝わる『曼陀羅本尊』や徽宗(きそう)皇帝筆の国宝『絹本著色夏景山水図』、平安中期の漢詩文集である重文『本朝文粋』などの一級品の資料が揃います。武田信玄、徳川家代々の書画も収蔵しており、領主の崇敬を受けてきたことも物語ります。
質実剛健な魅力を放つ本堂に対して、この右に隣接する棲神閣祖師堂(せいしんかくそしどう)はいかにも絢爛豪華な姿をしています。日蓮上人の御尊像を奉安するお堂で、11代将軍・徳川家斉が天保7(1836)年に建立したが廃寺となった堂宇を明治14(1881)年に移築したものです。
柱や桁は朱塗り、本瓦葺き風の屋根は銅板屋根。向拝部分の懸魚、斗拱、蟇股、木鼻などの装飾は色彩豊かで絢爛豪華な桃山様式になっています。内部も豪華で、須弥壇上の御宮殿厨子の左右に日蓮上人の両親の妙日尊儀・妙蓮尊尼と、本弟子の六老僧の木像が列せられています。
また、棲神閣祖師堂とさらに右隣の仏殿の前には、有名なシダレザクラが植わります。高さ13〜15メートル、樹齢は300年以上とされる名桜です。山内には多くの桜が植えられており、久遠寺は観桜の名所でもあります。
本堂などの堂宇が並び立つのは、身延山の広大な境内のごく一部に過ぎません。中腹の本堂とロープウェイで結ばれた山上には奥の院があり、本堂より東には東谷、西には西谷という塔頭の林立する地域、北西裏鬼門に位置する七面山にまで及ぶ寺域は900ヘクタールにもなります。
一日ではとても回りきれません。それでも、本堂の周辺以外でここには訪れておきたい場所があります。それが西谷にあたる御廟塔になります。手前の建物は拝殿で、身延山の材を用いた丸太建築檜皮葺き。奥に見える石造の八角塔が日蓮上人の遺骨と火葬の灰が納められた御廟塔です。
御廟塔の中に墓があり、その下の岩盤を方形に掘削して石室とし、遺骨が納められています。鎌倉中期に開宗され、現在も300万とも言われる屈指の信者数を抱える日蓮宗の開祖の御霊がここに眠っているのだと思うと非常に畏れ多くもあり、隔世の感を埋められたような不思議な感覚も得られることでしょう。
戦乱、政争、自然災害によって庶民の暮らしが過酷になってしまった鎌倉の世に生まれた日蓮宗。社会の安穏を願い、現世救済を是とする信仰は多くの人々に受け入れられ、日蓮宗は信徒を増やしてゆきました。この久遠寺の新旧の堂宇の数々や宝物群は、こうして積み上げられてきた信仰の力の大きさをありありと物語っています。
圧倒的な信仰や価値ある仏像などの宝物、高い技術を物語る建築を擁し、春には桜の名所にもなる久遠寺は、温泉や趣ある集落、古社古刹を抱える身延山地にあってハイライトになるぜひとも訪ねるべき存在です。
この記事の関連MEMO
- PR -
このスポットに行きたい!と思ったらトラベルjpでまとめて検索!
条件を指定して検索
(2023/12/8更新)
- 広告 -