甲府城は、北条氏との戦いに勝利し、甲斐を領有することになった徳川家康が造らせたものが始まりです。時の天下人・豊臣秀吉の命によって家康が江戸に移ると、羽柴秀勝、加藤光泰を経て浅野長政が入城し、概ね甲府城は整えられました。
現在、甲府城は本丸と本丸を取り囲む曲輪が残り、JR甲府駅を隔てて北に山手御門が復元されています。二の丸より城内に入り、早速本丸へ向かいましょう。
二の丸から本丸に向かうルートは、銅門跡を通る西ルートと鉄門(写真)をくぐる南ルートがあります。どちらも、本丸の石垣の下で幾度か屈曲しなければならないようにしてあり、石垣にも死角を減らすために屈曲させた折が見られます。さらに、本丸への虎口となる銅門や鉄門を櫓門形式にし、最後まで堅守の構え。甲府城の実戦的な縄張をよく感じることができるでしょう。
本丸にあって銅門や鉄門から最も遠い東の端に構えるのが、甲府城の天守台です。自然石をある程度方形になるように整えた粗割石を寝かせて、野面積みで積まれている天守台の平面は、きれいな四角形をしていません。また、天守台には穴蔵と呼ばれる空間があり、付櫓こそありませんが、石積み技術が未成熟だった古式の天守台の特徴をよく伝えています。
甲府城は、天守台を筆頭に総石垣で造られた城です。これは土造りが多い東国にあって、珍しい特徴です。未だ豊臣天下の時代であった浅野長政が治めていた頃は、秀吉が最も警戒する江戸の家康の押さえとして甲府城が非常に重要な地点でした。戦国期に造られた総石垣。この築城への力の入れようは、武田氏滅亡以降も甲府が要地であった証なのです。
甲府城には現存の建築物はありませんが、再建の建物はいくつかあります。その中でも強い存在感を示しているのが、平成16(2004)年に復元された本丸北の稲荷曲輪にある「稲荷櫓」です。
2層2階、本瓦葺きの入母屋造りは、古文書や古写真等を参考に江戸初期の形式を忠実に復元したもの。切妻破風のほか、入母屋屋根を乗せた張り出し部が特徴的な櫓です。櫓内も公開されており、史料や甲府城の縄張を復元した模型が見られます。
甲府城の本丸はJR甲府駅の南側にありますが、この山手御門は駅の北側にあります。甲府城の石垣を利用して復元されたもので、今は市街に埋もれてしまった西側の縄張のみに存在した甲府城内への虎口、3つあったものの一つになります。
山手御門は、高麗門形式の山手門と櫓門の山手渡櫓門からなる堅牢な桝形虎口です。山手渡櫓門の櫓部分へは入ることができるので、こちらにも入ってみましょう。甲府城の縄張に関する説明などがあり、櫓からの展望を楽しみながら往時の城域を偲べます。
山手渡櫓門の櫓から本丸を望みます。かつて、山手御門より城内で現在JR甲府駅となっている東半分は清水曲輪という甲府城の曲輪でした。そして、この清水曲輪の南に、二の丸と接続する堀で隔てられた屋形曲輪がありました。
なお、この屋形曲輪のさらに南、現在は山梨県庁となっている場所に楽屋曲輪が存在し、残る2つの虎口は楽屋曲輪の西(柳御門)と南(追手御門)に山手御門と同様の門の構造で存在していました。これら3つの外曲輪にも堀が廻らされ、守りが固められていました。
ここから展望すると、石垣の高さもよく分かります。電車のすぐ奥、左右に展開する稲荷曲輪の石垣は14メートルで高石垣の部類に入りますが、これのさらに上に本丸の石垣、天守台の石垣が見え、合わせると30メートルはあります。小山を活かしたとはいえ、甲府城もかなりの高さを有していることが分かるのです。
江戸中期以前は甲府城に藩庁を置いた親藩・譜代としての甲府藩が存在し、以降の甲府は幕府の直轄地となり、城代が置かれました。戊辰戦争では新政府軍が先取し、同じく甲府城を目指した旧幕府軍と勝沼で軍事衝突しています。こうした歴史からも甲府が要地とされていたことが分かります。
明治時代に入ると甲府城は廃城となり、建物は全て取り壊されて市街に埋もれてしまいました。しかし、幸いなことに本丸とこれを囲む曲輪や石垣は街の中にそのまま残りました。そして、平成の時代に入って城跡の整備計画が策定され、城門や稲荷櫓が史料に基づいて推定復元されました。
甲府の歴史を知ろうとするとき、甲府城という視点を持つと理解しやすくなります。戦国期の実戦的な縄張や石垣を楽しみながら、甲府の歩んできた歴史を甲府城で感じてみてはいかがでしょうか。
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