甲府市民の愛する名社に残る古城の趣〜躑躅ヶ崎館〜

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甲府市民の愛する名社に残る古城の趣〜躑躅ヶ崎館〜

甲府市民の愛する名社に残る古城の趣〜躑躅ヶ崎館〜

更新日:2016/06/05 19:04

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

甲府市街にあり、市民に愛されている甲斐国の総鎮守・武田神社。しかし、創建は「甲斐国」なんて呼び方がすでに昔のものとなった大正8(1919)年です。比較的歴史が浅い神社なのに、なぜ市民に愛される総鎮守となったのか。それは、この神社が甲斐の英雄・武田信玄の館跡を境内にし、なおかつ信玄を祀る神社だからです。そこで、今回はこの武田神社で見ることのできる信玄の館の痕跡をご紹介しましょう。

水堀と躑躅ヶ崎館の特徴

水堀と躑躅ヶ崎館の特徴

写真:小谷 結城

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甲斐国統一を目指した信玄の父・信虎が新たな本拠として築いたのがこの躑躅ヶ崎館です。武田氏館とも呼ばれますが、ツツジの美しさからこの名があります。躑躅ヶ崎館は神社が中央に鎮座する中曲輪とその隣の西曲輪(信玄時代に増築)からなり、豊臣政権下に中曲輪の東、西曲輪の南北に新たな曲輪が加えられています。

水堀が見られるのは、中曲輪と西曲輪の南半分の堀(北半分は空堀になっている)と、中曲輪の東に増築された隠居曲輪を形作る堀です。中曲輪と西曲輪は周囲を堀で囲んだシンプルな方形をしており、この中に居館を置きました。しかし、この居館は籠城戦にはあまりにも脆弱なため、これと同時に背後の山にも山城を築いて有事に備えました。

居館と山城をセットにした方式は、信長によって城の姿が大きく変わる以前の戦国期の特徴的なものです。水堀もまた豊臣政権時代に大型化されていますが、それでも中世の大名の居館の縄張が市街の中できれいに残されている躑躅ヶ崎館跡は貴重な存在と言えるでしょう。

武田神社の境内はかつての中曲輪

武田神社の境内はかつての中曲輪

写真:小谷 結城

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JR甲府駅から続く武田通りをまっすぐ北上すると、水堀に架かり中曲輪を結ぶ木橋の先に鳥居が現れ、この参道がそのまま拝殿の前にまで至ります。前述したとおり、この場所にかつて信虎・信玄・勝頼の武田氏三代にわたって本拠となった居館がありました。

この中曲輪の虎口は東西北3か所の土橋で、武田通りからまっすぐ続く木橋は当時は存在しないものです。当時の大手口にあたる東の虎口には三日月堀を擁した半円状の馬出が設けられ、西の虎口は西曲輪と連絡するために防御の工夫は無く、北の曲輪は外桝形虎口が設けられていたようです。

中曲輪の形状は概ね正方形で周囲に堀を廻らせ、そのすぐ内側に土塁を高く盛って守りを固めています。井戸が現存しており、武田時代の館の姿がどのようなものだったのか、想像が膨らむことでしょう。また、立ち入り禁止区域のために近づくことができませんが、北西隅には豊臣時代に造られたと思われる天守台の石積みも残っています。

「武田流」が見られる桝形虎口北門

「武田流」が見られる桝形虎口北門

写真:小谷 結城

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中曲輪から西曲輪に参りました。西曲輪は天文20(1551)年、信玄の長男・義信と今川義元の娘との結婚に合わせて義信の居館を置くために設けられた増築部です。しかし、義信は謀叛の罪に問われて自害してしまい、その後の利用については不明です。

さて、こちらの見どころは桝形虎口です。写真は西曲輪の北の虎口になります。武田流城郭の特徴である両袖桝形と呼ばれるもので、土橋の先の城内に〔〕形の土塁を築いて桝形を造る珍しい形になっています。2か所の狭まった部分は若干喰い違いさせることによって城外からの見通しを悪くし、それぞれに門をしていたと考えられます。

現在は跡形もありませんが、城外にはL字型の土塁も築かれていたと思われ、これがこの虎口の姿を隠していました。土橋そのものも人一人が歩けるほどの広さ。空堀も深く、一度落ちれば容易には登れません。守城側からの格好の的にもなるでしょう。土造りでも充分な堅牢性を有していたと認められます。

なお、石垣の部分は豊臣時代のものと思われます。同じく豊臣時代にこの門の北に増築されたとされる味噌曲輪には虎口が無いため、豊臣時代には北門の重要性は低下したと思われます。

桝形虎口南門も見逃せません

桝形虎口南門も見逃せません

写真:小谷 結城

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西曲輪では南北に桝形虎口が見られます。こちらは南側のものです。基本的な構造は北側と同様ですが、門の先端部の間口が広く取られており、礎石も発見されています。礎石から考えられる建造物の規模と土塁の高さから櫓門形式の門が武田時代から存在していたと考えられています。

南門は城下町に面するため、高い堅牢性とともに権威も示したかったのでしょう。なお、こちらの石垣も西日本からもたらされたとみられる積み方がされているため豊臣時代のものと思われます。同じく豊臣時代に西曲輪の南側に増築された梅翁曲輪(現存せず)は方形の巨大な馬出のような形をしており、豊臣時代に南門がより重要視されて守りがさらに高められていたことを示しています。

大手石塁と三日月堀

大手石塁と三日月堀

写真:小谷 結城

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中曲輪(武田神社の境内)を東から出ます。こちらは前述したとおり大手口です。虎口の先は丁字路になっており、前方に低い石垣が見えます。こちらが大手石塁。石垣なので豊臣時代の構造物になります。

石塁と言う以上は防御施設であり、位置からして大手口を正面から攻められないようにするためのものと考えられますが、それにしては低すぎますね。石塁には階段も見られることからこの上に構造物があったと考えられています。石塁を回り込んできた攻城側に対して、石塁の構造物の陰に隠れていた守城側が横から攻撃する意図も考えられます。

この石塁の先には水堀があり、これに区切られた隠居曲輪がありました。豊臣時代、大手口は水堀と石塁という二重の緩衝材で守られていたということになります。それでは、武田時代はどうだったのでしょうか。

発掘によって大手石塁と重なる位置に三日月堀のあったことが判明しています。三日月堀とは字のごとく三日月形の堀のことで、大手口の前には半円形の馬出があり、これが大手口を守っていたのです。この半円形の馬出も武田流城郭の特徴でした。

城の知識で面白くなる躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館は石垣が普及する以前の土造りの居館の特徴が分かり、武田流の築城術が分かる場所でもあります。さらに、石垣を多用するようになった豊臣時代の築城技法が、どのように前時代的な館の守りを強化したのかまで見られるのです。躑躅ヶ崎館は咀嚼するほどに味が出ます。貴重で実に面白い場所なのです。

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