写真:井伊 たびを
地図を見るここ「八坂神社」は、旧取手市内に於ける、上町、仲町、片町の鎮守であり、三ヶ町の「産土神(ウブスナガミ)」として、さらに「牛頭天王社(ゴステンノウシャ)」として崇められてきた。当社の創建は400年たらずの寛永3年(1626年)であり、歴史ある神社である。
ところで、こちらの鳥居が建立されたのは、300年あまり前の宝永4年(1707年)であるが、この年には富士山が噴火しており、宝永山ができた年。7月には大阪で銭相場が高騰し、10月には幕府藩礼の禁止などにより、政治的にも財政的にも厳しい年であったようだ。そんな年にも関わらず、現存するこちらの鳥居が建立されたということは、「八坂神社」に対する、当時の氏子の絶大なる信仰心の表れでもあり、また不景気のどん底にあえぐ氏子の神に対する、景気回復への願望の表れでもあったのだろう。
写真:井伊 たびを
地図を見る当社には御祭神として素盞鳴命(スサノオノミコト)が、お祀りされている。そもそも、素盞鳴命は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟君とされる神でり、勇猛果敢の誉も高く、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して得た神剣・天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)【のちの草薙神剣(クサナギノツルギ)】を、天照大神に献上したとの言い伝えがある。「邪」を裂き「魔」を祓う強い力を持ったとされるこの「素盞鳴命」をお祀りすることで、ここ「八坂神社」は、厄除け・除災招福に御神徳があるパワースポットとして、多くの信仰者を集めている。
こちらの拝殿は、廻り廊下の角金具に、はっきりと「天保3年(1832年)6月吉日の建立」と刻まれている。そもそも、創建当時の当社は、現存する場所ではなく隣接する地にあり、移築再建されたものである。
写真:井伊 たびを
地図を見る現在の本殿(取手市指定有形文化財)は、明治36年(1903年)に再建されたとされ、比較的新しいものであり、一間社流造である。建物全体には、精巧な彫刻が施されており、その彫刻は明治39年(1906年)に完成されている。明治期に建てられたとは思われぬほど、昔からの技法が脈々と受け継がれている古格の高い立派な建築物だ。一見の価値ある彫刻の鑑賞はもちろんのこと、建物全体の鑑賞もチェックポイントである。
また、拝殿軒下の彫り物も、要チェックである。躍動感あふれる鳳凰や、厳しい獅子の表情に、匠の技が漲っている。センスあふれるレイアウトは、現在の芸術造形物に伍するほどの作品群である。
写真:井伊 たびを
地図を見る本殿の精巧な彫刻とは、「透かし彫り」という高度な技法などを駆使して、神話の「天岩戸(アマノイワト)」「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」や「神功皇宮(ジングウコウゴウ)」などが彫られている。
ところで、こちらの彫刻の作者は、後藤縫殿之助(ゴトウヌイノスケ)と、縫殿之助の次男、保之助(ヤスノスケ)親子であると、本殿裏の石壇に刻印されている。しかし、縫殿之助は明治34年(1901年)に、すでに亡くなっている。縫殿之助亡き後、保之助は兄の後藤桂林(ゴトウケイリン)を頼り、寺田松五郎(テラダマツゴロウ)、高石伊八郎(タカイシイハチロウ)らと共に、完成させたのだろうと考えられている。
ちなみに、後藤縫殿之助は、「笠間神社」の彫刻を手がけたとされる名工である。また、向拝の龍の彫刻の裏には「寺田松五郎」、本殿板壁には「後藤桂林」の名が刻まれている。
写真:井伊 たびを
地図を見る境内には2本の「大銀杏」がある。いずれも樹齢300年以上で、「御神木」として崇められている。そもそも、銀杏の木には、黄金色の実をたくさん実らせることや、乳柱(チハシラ)を煎じて飲めば、乳がよく出るようになるとの言い伝えにより、「子授け安産の木」「子育ての木」として、昔から崇められている。
ところで、「安産祈願」は昔から日本で行われている神事のひとつ。戌(イヌ)の日には、無事の安産や、母子ともの健康や、なによりもお子さまの健やかな成長を願って、当社を訪れる人々も多い。
当社の「例大祭」は、毎年8月1日、2日、3日の三日間に執り行われる。1日と3日には、「関東三大御神輿」と呼ばれる重さ300貫(約1トン)の勇壮な大御神輿の渡御が観られる。それは、夕刻から始まり、担ぎ手総勢80人を超えて行われ、「荒モミ」と呼ばれる。一度は訪れてみたいものだ。
ちなみに、こちらの御神輿は、文政9年(1826年)の作で、屋根の軒が中心から扇状に広がる扇垂木(オオギタルキ)という美しい曲線の仕上がりになっており、これぞ!本物の御神輿!と呼べる素晴らしいものだ。
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(2024/4/20更新)
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