写真:乾口 達司
地図を見る近鉄奈良駅から、東へ徒歩5分。境内に足を踏み入れると、真っ先に目に飛び込んでくるのが、国宝の五重塔です。写真は、その五重塔……あれ?どこか違いますよね。
実は、興福寺の境内には、2基の木造の塔が建っているのです。写真は、南円堂の裏手、一段低いところに建つ三重塔です。創建は1143年(康治2)。1180年(治承4)、平重衡による南都焼き討ちの際に消失し、現在の塔は、鎌倉時代に再建されたものです。五重塔と同様、こちらも国宝に指定されています。内陣に安置された弁才天は、毎年7月7日の内陣公開の折に拝観することができます。
写真:乾口 達司
地図を見る南円堂と向き合う形で建つ不動堂の裏手に、一見、古墳のような土盛りがあります。茶臼山の別名を持つ額塚です。奈良時代、興福寺では、境内の南大門に「月輪山」という山号額を掲げていました。ところが、とつぜん、南大門の付近に大穴が開き、大量の水が噴出したり、風も吹かないのに樹木が倒れたりといった怪異が起こります。そんな折、ある僧の夢に「月の字は水に縁ある為なり」というお告げがあり、額を取りはずすと、以後、怪異は起きなくなりました。額塚は取りはずされた山号額を埋めたところであるとされます。事実、興福寺では、いまでも山号が用いられていません。
写真:乾口 達司
地図を見る猿沢池の南端から池越しに、五重塔を撮影した写真を見かけた方も多いのではないでしょうか。奈良を代表する景観の一つであるといってよいでしょう。猿沢池を訪れたら、その撮影スポットにも、足を運んでみてください。そして、そこからご自身の後ろを振り返ってみてください。猿沢池に沿って流れる率川の中洲に、写真のような地蔵石仏群を見ることができるでしょう。大小数十体から成る地蔵石仏群は、川の名前をとって、「率川地蔵尊」(いさがわじぞうそん)と呼ばれています。複数のお地蔵さまが一箇所に集められている光景はよく見かけますが、川の中洲を小舟に見立ててお地蔵さまを集めている光景は、珍しいですね。
写真:乾口 達司
地図を見るなら土連会館の向かい、五重塔をのぞむ荒池の堤防脇に「俊寛塚」と刻まれた石碑が建っています。塚の主である俊寛は京都・法勝寺の執行で、後白河法皇の側近でもありました。1177年(安元3)、平家の打倒をくわだてたとされる鹿ケ谷の陰謀のメンバーの一人として、その名を知る人も多いでしょう。『平家物語』によると、俊寛は平康頼や藤原成経とともに薩摩国の鬼界ケ島へ流され、そこで亡くなったとされます。しかし、『奈良坊目拙解』によると、弟子の有王によってひそかに奈良に連れ戻されて、晩年を当地で過ごしたといいます。俊寛は、青年時代、興福寺の子院・興善院で学んだとされます。そのときの縁がこういった伝承になったのかも知れませんが、鬼界ケ島で亡くなったとされる俊寛の塚が興福寺の旧境内に残されているとは、驚きですね。
写真:乾口 達司
地図を見る興福寺の子院・菩提院大御堂の境内の一角に、亀石の上に乗った石塔があります。三作石子詰の塚です。その名のとおり、江戸時代、神の使いとして神聖視されていた春日大社の鹿をあやまって殺傷し、鹿とともに石子詰の刑(罪人を生きたまま穴のなかに落とし、石を詰め込んで、死にいたらしめる刑)に処せられたとされる少年・三作の墓です。過失であるとはいえ、神鹿を殺したために処刑されてしまった少年の哀れな死は涙を誘うと同時に、子どもであっても容赦をせず、厳罰に処した当時の興福寺の権力の強大さを思い知らされます。
興福寺といえば、誰もがよく知る観光スポットですが、今回、ご紹介したような、一般には知られていないスポットや逸話は、まだまだたくさんあります。こういったスポットにも足を運ぶと、興福寺の多面的な魅力や特徴が、よりいっそうはっきりすることでしょう。興福寺の歴史を深く学ぶためにも、奈良観光の折に、ぜひ訪れてみてください。
拝観料 : 境内自由
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(2024/4/19更新)
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