写真:浦賀 太一郎
地図を見る苔むした石垣を横目に眺めながら、歴史を感じる石段を登れば、唐津城の本丸に至ります。本丸から見上げる天守は迫力があり、在りし日の唐津城を…偲びたいところですが、実は唐津城、天守ができたのは、昭和に入ってからなのです。
2016年で築城50周年を迎える唐津城天守閣は五層五階地下一階の、堂々たるたたずまい。江戸時代の唐津城に天守は無く、天守台の石垣のみが積まれるという、幕府に遠慮して、あるいは経済的な理由で天守築城を断念した、江戸期には比較的有りがちだった、天守無しの城だったのです。
ちなみに、有料の斜行エレベーターが麓にありますので、石段200段以上、標高43mの平山城ですが、天守まで楽々たどり着けます。
写真:浦賀 太一郎
地図を見るなにはともあれ、天守に登ってみましょう。地下含め全六階の天守は、桃山様式を取り入れた望楼型。外観は江戸時代にポピュラーになった白塗り。鉄筋コンクリート造りは、昭和の時代に広く流行した築城方法です。各階には唐津の古絵図や武具、城下町のジオラマ、それに伝統工芸である「唐津焼」の展示など、見応えは充分。
なにより、最上階展望室からの景色は素晴らしく、雄大な松浦川の河口と、特別名勝に指定されている「虹の松原」の美しい風景(写真)を一望でき、日本三大悲恋の一つ、松浦佐用姫や神功皇后の伝説が残る「鏡山」、唐津市街、唐津湾の多島美など、360度のパノラマが広がります。
写真:浦賀 太一郎
地図を見るライトアップは毎日行われ、市街のほぼどこからでも見え、青白く光り、夢幻のように夜空に浮かび上がります。「海城」と呼ばれるほどの城なので、夜の海に浮かぶ天守は格別です。また夜間でも本丸までは登ることができるので、夜空にそびえる天守をほぼ真下から撮影することも可能です。
唐津城は、唐津市の北部に位置し、松浦川の河口の左岸にたたずむ小丘陵・満島山にその本丸を置いています。右岸には日本三大松原の一つである虹の松原が約4kmに渡って広がり、その様がまさに鶴が翼を広げたように見えることから、別名・舞鶴城と呼ばれています。
写真:浦賀 太一郎
地図を見る名だたる戦国大名たちを従え、天下人となった豊臣秀吉子飼いの武将・寺沢広高が唐津城を築城したのは今から400年以上も昔の慶長13(1608)年。今でも官位であった「志摩守」から、しまさま、と呼ばれ慕われる寺沢広高は築城はもちろんのこと、今でも佐賀県屈指の都市である唐津市の基礎を築いた人であると言って良いでしょう。
国際貿易や、秀吉の「唐入り」を視野に入れた唐津城の普請は、いわゆる「海城」と呼ばれる属性の城です。山口県の萩市にある萩城と同じく、海側は海面から直接石垣が積まれ、さながら城郭が水面に浮かんでいるように見えるほど。今でもその形状をとどめているお城は、全国でもほとんど残っていないんですよ!
写真:浦賀 太一郎
地図を見る唐津城が並々ならぬ規模の城塞であったことは、市街を散策してみるとよくわかります。「城らしい城」の部分は天守や石垣をはじめとした舞鶴公園周辺に残るのみですが、町の随所にその面影を見ることができます。写真は三の丸西の門跡の石垣ですが、本丸からは700mほども離れており、唐津藩士のほとんどがこの三の丸に暮らしていたといいます。
市役所がある場所には「肥後堀」という三の丸の水堀が一部復元されていますが、往時は幅20〜25m、長さ300mという大規模なものでした。
さらに城下町全体を外曲輪で覆っており、この手法は、小田原城や大阪城などに見られる、いわゆる「総構(そうがまえ)」の構造であったことが解ります。
唐津市は、砂州に被せたお椀のような満島山に築かれた唐津城を基礎として発展した町なのです。北は海、東と南は川に囲まれ、西は石垣を積み堀をめぐらしておりますが、本丸以外は散策しやすい、平坦な地形の縄張りとなっております。幕府にも献上された「唐津焼」や、全国的に有名な祭り「唐津くんち」も、この唐津城総構の中で発展した文化と言えます。
唐津城へお越しの際は、ぜひ天守のある本丸部分だけではなく、美しい天守を眺められる松浦川の対岸や、遺構の残る町中も散策してみて下さい。
では皆さん、がばい(とっても)楽しい佐賀の旅路をどうぞ!
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この記事を書いたナビゲーター
浦賀 太一郎
ペリー来航の地・浦賀出身の太一郎です。普通のサラリーマンです。週末や連休に気の向くまま、やや綿密に計画を立て旅をします。一人旅、友達との旅、お嫁さんとの旅、家族との旅、出張という悩ましい旅。人生の様々…
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