1893年(明治26年)、当時の敦賀の人々の請願によって尊良親王(たかながねしんのう、1311年〜1337年)を御祭神として創祀されたのが「金崎宮(かねがさきぐう)」です。1982年(昭和57年)には改築され、現在に至ります。
御祭徳は、縁結び・恋愛成就、難関突破、開運招福、金運招福と年間を通じて多くの参拝者が訪れる敦賀でも人気のパワースポットです。北陸本線・敦賀駅から「ぐるっと周遊バス」を利用すれば、約18分で「金崎宮」に到着とアクセスもしやすい立地。無料駐車場も完備されているので、車の利用者も安心のスポットです。
では、早速、こちらの参道の階段を上がっていきましょう。
本殿への階段を進み始めると間も無く、右手に鳥居があり、その奥にはさらに階段が続きます。火防の神と崇拝される「愛宕神社」です。恋愛で火傷をしないように、または難関突破でお尻に火が着かないように、お参りをしておきましょう。
再び本殿への階段を登っていくと、大きな鳥居とその先には舞殿が見えてきます。これで約150メートルの階段を上がった事に。振り返って、目を転じれば敦賀の街並みや敦賀湾の景観を楽しめます。
こちらが縁結び・恋愛成就、難関突破のパワースポット、“恋の宮”の「金崎宮」の本殿です。“恋みくじ”もあるので、神様の御意見を拝聴してみてはいかがでしょうか。
「花換えましょう」と声を掛け合い、神社で受け取った桜の小枝を交換し想いを伝えたと言われるロマンチックなお祭り、“花換まつり”。毎年春、境内の桜が咲き誇る時期に、約10日間にわたって行われる神事です。
明治の終わり頃に始まったとされ、男女の交際のきっかけがあまり無かった当時、“花換まつり”は縁結びの最適な機会となりました。そのため、いつの頃からか、「金崎宮」は“恋の宮”とも呼ばれるようになり、男女の縁を取り持つ場から、縁を願う場として変わりつつあり、大勢の参拝者が訪れるパワースポットとなっています。
1570年(元亀元年)4月、朝倉義景討伐を企てた織田信長が越前に攻め入ろうとした折、浅井長政の裏切りの知らせが、信長の妹で長政の妻・お市の方よりありました。陣中見舞いと称して、両方を紐で結んだ袋に小豆を入れて届けさせたのです。
この袋が意味する所、袋のネズミ、つまり、挟み撃ち。その事に気が付いた信長は即座に撤退。金ヶ崎の退き口(のきくち)とも、金ケ崎の戦いとも呼ばれる信長の撤退作戦は見事に成功します。
また後に姉川の戦いで朝倉・浅井軍に勝利していることから難関突破、開運招福の同様の袋型の御守りとして「金崎宮」で販売されています。その他、恋愛成就を始めとする各種の御守りもありますので、それぞれ御確認下さい。
「花換の小道」は本殿の左手から約200メートル続く海岸沿いの道。桜の小枝を交換した男女が愛を語らい将来を確かめ合ったと伝わる、幸せの小道です。敦賀の山々や市街地、港、遠く氣比神宮や気比の松原を望む素晴らしい景観も楽しめます。
1370年代、鎌倉幕府末期のこと、才覚も容貌も優れ、次期の皇太子として、自らも周りも期待していた尊良親王。しかしながら、鎌倉幕府の差金により別の親王が皇太子に就任。尊良親王はすっかり落ち込んでしまいます。
見かねた友人・二条為冬は尊良親王を連れ出し下鴨神社へ。その帰路、運命の歯車が回り出します。御匣殿(みくしげどの)という素敵な姫君と出会いです。しかし、御匣殿には婚約者の徳大寺左大将(とくだいじさだいしょう)が。
それでも想いを伝えようと一千通以上の恋文を送ります。愛情深い尊良親王に心惹かれる御匣殿。そんな折、徳大寺左大将が婚約を取り止めたとの朗報。晴れて尊良親王と御匣殿の恋は実ったのでした。この物語は、軍記物語『太平記』にも記されています。
「花換の小道」の先には、金ヶ崎の最高地・海抜86メートルの「月見御殿」。その途上の右手には「尊良親王御陵墓見込地」と刻まれた円筒形の石碑も建立されています。
花換えをしたカップルは将来幸せに恵まれると伝わる「花換まつり」。春に開催されるお祭りですが、縁結び・恋愛成就を求める人々には季節を問わず、“恋の宮”とも呼ばれる「金崎宮」を訪れてみてはいかがでしょうか。
四季折々の山の彩りや敦賀の景観も楽しめる場所です。困難な恋の道が待っていたとしても、難関突破の御神徳のあるパワースポット「金崎宮」です。お一人様、または友人と共に縁結びや良縁を願って訪れるのも良し、恋人と一緒に将来を確かめ合うのも良し。
以上、福井県敦賀市にある「金崎宮」の御紹介でした。
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(2023/12/6更新)
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