「金ヶ崎城」は南北朝時代には新田軍と足利軍が、戦国時代には織田信長が豊臣秀吉、徳川家康、前田利家等と共に朝倉義景軍と戦った古戦場。明治には「金崎宮」が創建され、春には全国的に珍しい“花換まつり”が行われ、縁結び・恋愛成就の“恋の宮”とも呼ばれるパワースポットとしても有名です。
1934年(昭和9年)には国の史跡に指定され、2007年(平成19)には“日本の歴史公園百選”にも選定され、多くの参拝者が訪れる歴史豊かな場観光スポットとなっています。参道の階段を登っていくと、中腹にあるのが「金崎宮」です。御祭神は尊良親王(たかながしんのう)、後に恒良親王(つねながしんのう)も合祀され、現在に至ります。
「金ヶ崎城」は軍記物語『太平記』に「かの城の有様は三方は海によって岸高く、巖なめらかなり」と記述されてもいる場所。「金崎宮」の本殿から左手に伸びる“花換の小道”と呼ばれる約200メートルの海岸沿いの小道からは敦賀の景観が望めます。
左手奥の方向には日本三大木造鳥居の一つを有する神社“氣比神宮”、また右手の方向には日本三大松原の一つ“気比の松原”です。また当時、眼下の金ヶ崎緑地の公園や線路の場所は海でした。想像力を膨らませて、南北朝時代や戦国時代の風景を思い描いて楽しむのもオススメです。
下部関連MEMOには、「金崎宮」や“氣比神宮”についての詳しい紹介記事へのリンクがありますので、宜しければそちらも合わせて御覧下さい。
2002年(平成14年)のNHK大河ドラマ『利家とまつ』は加賀百万石の礎を築いた前田利家と妻・まつにスポットライトを当てた人間模様を描いた作品。竹山洋の原作『利家とまつ』の「比叡山焼き打ち」の物語に出てくるのが金ヶ崎城です。
1570年(元亀元年)に織田信長が朝倉義景を討つために、「金ヶ崎城」を攻め落とします。しかし浅井長政の裏切りを知り、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家と共に撤退。“金ヶ崎の退き口(のきくち)”とも呼ばれ、見事な撤退作戦と言われています。
「花換の小道」の先には、小休憩のできる東屋のある「鴎ヶ崎」。1909年(明治42年)には東宮殿下、1933年(昭和8年)には昭和天皇が訪れた風光明媚な場所でもあります。
2006年(平成18年)のNHK大河ドラマ『功名が辻』は山内一豊が妻・千代の内助の功によって、土佐藩主となるまでの生涯を描いた作品。司馬遼太郎の原作『功名が辻』の「戦場」という物語に「金ヶ崎城」が出てきます。
山内一豊は先述の“金ヶ崎の退き口”で深い傷を負いながらも、朝倉軍の武将・三段崎勘右衛門(みたざき かんえもん)を討ち取りました。この功績により織田信長から現在の滋賀県長浜市の唐国400石を与えられ、戦国武将・山内一豊の第一歩が記されたとされています。
「鴎ヶ崎」からは再び、階段が続きます。金ヶ崎城の最高地点までは、あともう少しなので諦めないで登っていきましょう。頂上部分は「月見御殿」と呼ばれ、南北朝時代の本丸跡、戦国時代などにも武将が月見をした伝わる場所になります。
「金ヶ崎城跡」の最高地点で、海抜86メートルの場所。月見崎と言い、通称「月見御殿」と呼ばれています。こちらにも小休憩できる屋根付きの東屋や大きな石碑「金ヶ崎城阯碑」もあります。石碑は敦賀が福井県ではなく滋賀県であった頃、1878年(明治11年)年に建立されたもの。
それでは「月見御殿」からの景観を。右手前には新日本海フェリーの敦賀フェリーターミナル、さらに遠く天候に恵まれると越前海岸まで望める場所です。長い階段の疲れも忘れさせてくれる眼前の景色と海からの心地良い風を存分に味わってみて下さい。
“金ヶ崎の退き口”の後に、織田信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を討ち破った事から「金崎宮」では、難関突破・開運招福の御神徳もあるとされています。縁結び・恋愛成就と合わせて、素晴らしいパワースポットですね。
その他、尊良親王、恒良親王、新田義貞等の様々な人物の歴史や物語のある「金ヶ崎城跡」。数百年前に思いを馳せて、四季折々の自然の色彩を楽しみながら散策してみてはいかがでしょうか。
以上、“恋の宮”とも呼ばれる「金崎宮」のある福井県敦賀市「金ヶ崎城跡」の御紹介でした。
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(2023/12/8更新)
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