豊国神社に隣接する常泉寺は、「太閤山」と名付けられ日蓮宗に属しています。安土桃山から江戸時代初期にかけ、加藤清正の一族である円住院「日誦上人」によって創建されました。
寺号(お寺の名前)の由来は、豊臣秀吉の生誕時に豊富な清水の溢れる井戸がこの場所にあったことから名付けられました。その井戸が境内にある「産湯の井戸」と呼ばれる場所で、他にも秀吉に関わる調度品や文献などがあります。
寺院の造りも立派ですが、それよりも惹かれるのは石畳で敷き詰められた境内です。敷地はそれほど広くはありませんが、山門から続く参拝道は晴天の日には陽の照りかえしが強く、まぶしいぐらいです。そのせいかとても開放感があり、本堂横に掲げられた仏旗(仏教を象徴する旗)が色鮮やかに棚引いています。
常泉寺でぜひ体験して頂きたいのが「むすびの輪」です。これは、石柱の上下部分に回転式の石の輪がつけられたもので、双方の石の輪には全く同じ色のテープ(若干剥がれ気味)がいくつか貼られています。上部にはハート型の石がついており、縁結びがどれぐらいの確立で成就するのかを占うための、画期的なマシーンとなっています。
まずは本堂にてお祈りをします。その後、この「むすびの輪」のまず下の石輪を回します。次に上の輪を同様に回転させ、下の石輪と同じ色が揃えば、祈願成就の太鼓判を仏様からもらえるという訳です。二つまでの不一致は「あと少し」、三つ以上のずれは「努力が肝要」なのだそうです。当たるも八卦、当たらぬも八卦ですので、試してみてはいかがでしょうか?
抽選会場に置いてあるくじ引き機のように、思いっきり石輪を回転させると指が挟まる危険があるのと同時に、ガタガタと音を立て滑らかに回りませんので、「やさしく」回してあげるのが成就の精度アップの秘訣です。
開創時は「正起山・本行寺」といい、真言宗の寺院だった常泉寺。当時は現在よりも大きな本堂を構えており、まだ豊国神社も存在していませんでした。しかし1294年、日蓮宗の僧侶「日像上人」が京都で布教を始めると、その教えを請い、日蓮宗へ改宗することになります。
日像上人は東国出身だった為、当時の布教活動は大変な労力を要しました。しかし、その布教活動はやがて実を結び、地域の有力者の帰依を受けることになります。その反面、比叡山や他宗の圧力がかかり、上皇の命で流罪となってしまいます。生涯で三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受けながらも布教を続けます。その一貫した意志を物語るように、巨大な石碑には「南無妙法蓮華経」の文字が力強く刻まれています。
通常、日蓮宗の寺院には開祖である日蓮の銅像が建っているのですが、この寺院にはそれがなく、代わりに秀吉の銅像があります。秀吉は、1590年の小田原征伐によって北条氏を倒した後、凱旋途中にこの地へ立ち寄りました。当時、上人の存在を秀吉が知っていたのかどうかは不明ですが、この寺院への思い入れが深かったことは史跡からも伺えます。
秀吉ゆかりの品が多い常泉寺。境内には「豊太閤産湯の井戸」や「御手植えの柊」などがあり、宝物としては秀吉の肖像画のほか、本人が所持していたと伝えられる軍配や茶釜、硯などが所蔵されています。
本堂では御朱印を頂けるとあって、戦国武将ゆかりの寺社を巡っている人々のあいだでは人気のある寺院だそうです。秀吉の生誕地について諸説あるなかで、この常泉寺のある「中村」は最も信憑性が高いと伝えられています。理由としては、秀吉亡き後すぐに近辺に居を構えていた清正などによって、生前の記録や資料が保護されたことが大きい要因といえるでしょう。
敷地内にある井戸も1960年代に一度は枯れてしまいました。しかし、「常泉」の名のごとく、再び源泉が復活し水が湧き出るようになりました。また幼少時、秀吉が植樹したとされる柊も、幹が衰えてもその度に下枝が育ち、現在は基木から数え五代目になるといいます。そのような経緯を聞くと、この寺院も秀吉の強運に守られているような気がしてきます。
地元において、秀吉人気は日常生活に根付いていると言っても過言ではありません。「太閤さん」の愛称で親しまれ、豊臣家滅亡後も書籍や浄瑠璃、歌舞伎などの題目として取りあげられました。
秀吉の人物像は政務を執っていた大阪と比較すると、経済面における影響力よりも庶民にとって精神的な拠り所になっていることが伺えます。「中村」の地は天下人になる土台となった場所であり、そこに神格性の強い要素が含まれています。
主祭神として祀られている武将は数多くいますが、信仰対象としてこれほど身近な存在であり続ける存在は全国でも珍しいのではないでしょうか。
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