幸村の子孫は遠く宮城で生き続けた!「仙台真田家」ゆかりの地巡り

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幸村の子孫は遠く宮城で生き続けた!「仙台真田家」ゆかりの地巡り

幸村の子孫は遠く宮城で生き続けた!「仙台真田家」ゆかりの地巡り

更新日:2016/07/26 11:13

右肩のプロフィール写真 右肩

数多くの戦国武将の中でも人気が高い「真田幸村(信繁)」。NHK大河ドラマ『真田丸』で更に話題になりました。
幸村は、大坂夏の陣で敵本陣まで突撃し敵総大将徳川家康を追い詰めますが、あと一歩及ばず討死にし、幸村の一族も滅亡したと思われていました。
ところが、子供達は密かに伊達軍に匿われて遠く仙台藩へ逃れ「仙台真田家」として存続したのです。今でも宮城県に残る、幸村の子孫ゆかりのスポットをご紹介します。

敵将片倉小十郎重綱に子供を託した秘話〜幸村の子供が密かに養育された「白石城」〜白石市

敵将片倉小十郎重綱に子供を託した秘話〜幸村の子供が密かに養育された「白石城」〜白石市

写真:右肩

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徳川方と豊臣方の最終決戦となった大坂夏の陣。豊臣方として参戦した真田幸村は、討死する前日に、徳川方伊達政宗が率いる軍勢の先鋒である片倉小十郎重綱(後に重長へ改名)の部隊と交戦します(道明寺の戦い)。
豊臣方で豪将と名高かった後藤又兵衛や薄田隼人兼相などを討ち取った重綱は、家康から武勇を称えられ「鬼小十郎」の異名を頂くほど勇猛に戦いながら、真田軍が撤退する際には追撃を控えました。

敵将ながら重綱に知勇兼備を見込んだ幸村は、すでに討死の覚悟をしていた事もあり、その日の夜に娘の阿梅(おうめ)を密かに重綱の元へ送り届けさせて、後事を託しました。
大坂城陥落後、伊達軍が京都に駐屯している間に、さらに次男の大八(だいはち)と3人の娘が送り届けられ、帰還する伊達軍に匿われて仙台藩に逃れます。
その後、5人の子供達は重綱の保護を受けて白石城内で養育され、幸村の血脈が密かに存続する事になります。

宮城県白石市にある「白石城」は、伊達政宗の重臣である片倉小十郎景綱が入城してから代々片倉家が居城した仙台城の支城です。
木造建築により忠実に完全復元された現在の三階櫓(天守)と大手門は、戦後の木造復元天守として日本最大級を誇る城郭建築です。
毎年10月に開催される「鬼小十郎まつり」では、道明寺の戦いから阿梅が託されるまでの様子が、百名以上のエキストラにより再現されます(写真)。

幸村の子・阿梅と大八の墓が並ぶ「当信寺」〜白石市

幸村の子・阿梅と大八の墓が並ぶ「当信寺」〜白石市

写真:右肩

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最初に重綱に託された阿梅は、残る幸村の子供達の頼り先としての役割を果たし子孫存続に貢献します。その後、正室が亡くなった重綱の継室(後妻)となり、白石で一生を閉じました。

唯一生き残った幸村の男児である大八は、家康の命をおびやかした幸村の血を引く男児でもある事から、その生存は徹底的に秘匿され白石で養育されます。
伊達家の家臣となった28歳の時、初めて真田姓を名乗って真田守信(もりのぶ)と称しますが、幕府から逆賊(幸村)の家系ではないか詰問され、真田信尹(のぶただ・幸村の叔父)の孫であると虚偽の説明をして追求をかわします。
しかし、真田姓は断念して片倉守信に改める事となり、その後も真田の復姓叶わぬまま一生を終えました。

白石市街にある「当信寺」に、阿梅と大八の墓が並んで建立されており(写真)、幸村の子孫を偲ぶ人々が訪れる代表的なスポットとなっています。
観音像をかたどった阿梅の墓は、墓石を削って飲むと歯痛に効くと信じられ、表面がすっかり削られて姿が分からない状態です。

大八の墓は刻まれた一文銭が印象的です。幕府の詮索を避けるためか、仙台真田家では六文銭の家紋は使用されず、せめてもの一文銭かも知れません。
尚、当信寺の山門は、かつての白石城東口門が移築されたものです。

娘の阿菖蒲が建立し供養した「幸村の墓」〜白石市

娘の阿菖蒲が建立し供養した「幸村の墓」〜白石市

写真:右肩

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真田幸村の墓と伝わる場所は全国に複数ありますが、そのうちの一つが白石市にあります。
幸村の娘である阿菖蒲(おしょうぶ)が、嫁ぎ先である田村家の墓所に、幸村の遺髪を埋葬した墓を建立し供養したもので、正確には幸村の供養塔といったものです。

先の5人の子供とは別に、重綱・阿梅夫妻の養女として白石に迎えられた阿菖蒲は、後に片倉定広に嫁ぎます。
夫である定広は、豊臣秀吉によって取り潰された田村家の末裔であり、田村家先祖を弔う墓所を白石に建立し、そこに阿菖蒲が幸村の墓を建てたのです。
ちなみに田村家は、現在の福島県三春町周辺を治めていた領主で、伊達政宗の正室である愛姫の実家です。

白石市の山中にひっそりと佇む田村家墓所に、幸村と阿菖蒲の墓が並んで建立されています(写真:左が幸村、右が阿菖蒲の墓)。
幕府からの詮索を避けるためか、幸村の墓は無銘の自然石で一切文字は彫られていません。昭和23年に建立された手前の標柱には「幸村御墓」と刻まれています。

幸村の子孫である事を初めて公にした「真田幸清筆子塚」〜蔵王町

幸村の子孫である事を初めて公にした「真田幸清筆子塚」〜蔵王町

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伊達家に召し抱えられた守信(大八)は、32歳の時に現在の宮城県蔵王町の矢附・曲竹地区を中心に360石の領地を与えられ屋敷を構えます。この時から、幸村の子孫は蔵王町で脈々と続いていきます。

守信の息子である片倉辰信(ときのぶ)が57歳の時、幕府からの内諾を受けて真田を名乗り、幸村討死から約100年にして悲願であった真田復姓を果たします。
松代藩(長野県)の真田家と混同しない様、仙台藩の「仙台真田家」と呼ばれ、現在も家系は続いています。
しかし、まだ幸村の子孫である事は秘匿され、虚偽の系図に従って信尹の家系として真田姓を名乗りました。

その後、幸村の直系家系である事が公になるのは、さらに約160年後の明治時代です。
仙台真田家の領地であった蔵王町矢附地区に、八代目当主である真田幸清の筆子塚(供養塔)が残っており「左衛門佐幸村十世」と刻まれています(写真)。これが、江戸時代が終わり、仙台真田家が幸村の子孫である事を初めて公表できた重要な筆子塚です。
近くには、「幸村十一世」と刻まれた、真田豊治の墓碑もあります。

幸村の貴重な遺品を見よう!特別展「仙台真田氏の名宝」〜蔵王町

幸村の貴重な遺品を見よう!特別展「仙台真田氏の名宝」〜蔵王町

写真:右肩

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幸村直系の家系である仙台真田家には、密かに幸村の遺品が代々受け継がれて来ました。
仙台真田家ゆかりの地である蔵王町の「ふるさと文化会館(ございんホール)」では、この貴重な遺品を見る事ができる特別展「仙台真田氏の名宝」が不定期で開催されています。

父昌幸から譲られたという鹿角前立の兜が特徴の南蛮胴具足は、大坂冬の陣の後に屋敷にあったと伝わる事から、幸村が大坂の陣で着用したものと言われています。
さらに、六文銭旗と白采配は幸村公死持と伝わり、討死の際に所持していた貴重な遺品です。大坂冬の陣で攻撃した際に分捕ったと伝わる、徳川伝令兵の五字四半旗も。
その他、幸村公所用の弓懸、軍扇、刀、朱漆で化粧された血溝が特徴の笹穂鑓や、江戸時代に模写されたと伝来する昌幸公・幸村公・片倉守信(大八)公の肖像画など、幸村ファンには堪らない遺品が特別公開されます。

これらの遺品が展示される特別展「仙台真田氏の名宝」は、残念ながら不定期開催の特別公開です。
現在のところ2013年から毎年春〜夏に開催されており、2016年は4/2〜8/31の開催で、NHK大河ドラマ『真田丸』のポスターパネルも展示されています。
詳細は、以下関連メモ欄のリンク「真田の郷・蔵王町 PR活動公式HP」を確認下さい。

真田幸村と伊達・片倉家が繋いだ「仙台真田家」ゆかりの地を巡ろう

大坂の陣での活躍で日本一の兵(つわもの)と賞賛され、今でも人気の真田幸村(信繁)。
その子供たちが敵将に託され、遠い奥州の地で子孫が存続したという秘話。
しかも託された敵将が、これまた人気武将である伊達政宗や片倉小十郎なのですから、ドラマの様な魅力ある展開に驚かされます。

そんなドラマチックな歴史が残る、仙台真田家ゆかりの地・宮城県白石市と蔵王町。真田幸村公を偲びながら、ゆかりのスポットを巡ってみませんか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2016/05/14 訪問

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