写真:後藤 徹雄
地図を見る忍城は室町時代1478年頃、成田顕泰(あきやす)によって築かれた。一帯は荒川と利根川に挟まれた低湿地帯で、城は沼に浮かぶ小島を橋で繋ぎ、沼を堀として活かした水城であった。
天正2年には上杉謙信による攻城、同18年の石田三成による水攻めにも耐えた要害堅固の城で関東七名城のひとつと謳われた。
江戸時代に入ると江戸防備の要害として、また忍藩十万石の政庁として徳川家譜代の居城となった。特に寛永年間に阿部氏(忠秋正武)による城の改修と城下町の拡張整備によって今日の行田の基礎が築かれた。現在町のシンボルになっている御三階櫓は、この寛永期の絵図面を参考にして天守風に再現したものである。
写真:後藤 徹雄
地図を見る本丸跡に昭和63年(1988年)に行田市郷土博物館が完成し、周辺は忍城址公園として整備された。郷土博物館では「行田の歴史と文化」をテーマに中世忍城の起こりから石田三成による水攻め、さらに江戸時代の忍城の変遷と城下町の暮らしが展示されている。
なかでも「足袋と行田」のコーナーでは、行田が江戸時代後期から明治大正昭和と続く足袋の一大産地であったことが紹介されており、レトロな雰囲気が見学者を惹きつけている。
再建された御三階櫓もこの博物館に直結しており、内部は展示室となっている。
写真:後藤 徹雄
地図を見る天正18年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条氏の支城であった忍城は石田三成率いる二万の大軍によって包囲された。三成は秀吉の備中高松城攻めに倣い「水攻め」を敢行、全長28kmにおよぶ堤防を築き、利根川の水を引き込んで城を水没させる戦術であった。
しかし堤防の決壊などで失敗に終わり、籠城軍も良く守り抜いてついに落城を免れた。以来忍城は「忍の浮き城」として名を馳せた。
この忍城攻防戦は度々歴史小説の題材として取り上げられている。
石田軍が本陣を置いた丸墓山に登ってみると、今も忍の城下を一望に見渡すことが出来る。石田三成も、そして援軍として参戦した真田昌幸・信繁(幸村)父子もここからその浮き城を見下ろしたのである。
写真:後藤 徹雄
地図を見る水攻めの際、石田三成が本陣を置いた「丸墓山」とは6世紀前半に造られた古墳である。直径105m、高さ19mで円墳としては日本最大のもの。行田市南部のこの一帯には9基の大型古墳が残り「埼玉古墳群」と呼ばれている。「さきたま」と読み現在の県名「埼玉」はこれに由来するという。
中でも稲荷山古墳、二子山古墳、鉄砲山古墳などは畿内の古墳にも匹敵する100mを越える前方後円墳である。古墳とその周辺から出土した装身具、埴輪など約250点や稲荷山古墳から出土した鉄剣(国宝)を展示する「県立さきたま資料館」も必見。
全域に芝が植えられ「さきたま風土記の丘」として美しく整備された古墳公園、古墳の丘に立ち悠久の歴史に想いを馳せてみよう。
写真:後藤 徹雄
地図を見る行田の町を歩くと店先に「フライ」や「ゼリーフライ」の文字を見かけるが、これはどちらも小麦粉を使った行田のご当地グルメだ。埼玉県北部は古くから小麦の産地で、もともとは農家で手軽に作れるおやつであった。それが昭和初期に全盛期を迎えた足袋工場で働く女工さんの間でも人気を得て定着し、今でも30軒以上の店が営業を続けている。
そのうちの一軒、忍城からもほど近い「かねつき堂」のものを紹介しておこう。
まず左が「ふらい」だが、小サイズの方(約20cm)で 卵入り、ソース味(醤油味もあり)の薄くのばしたお好み焼き風で、思いっ切り昭和レトロ感が漂う一品である。(350円)
焼きそばを入れて畳んだ「ふらい焼きそば」も人気。(450円)
右が「ゼリーフライ」1人前2個200円。じゃがいもにネギ、にんじんと「おから」を入れて練り、小判型にして揚げたもの。ころもの付いていないコロッケといったところか。小判型なので「銭フライ」がなまって「ゼリーフライ」という説が有力である。
町の人達には気軽に立ち寄って買い求める、暮らしに密着した食品となっている。
首都圏に入る埼玉県はどうしても観光地として認識されることが少ないが、実は知って欲しい歴史、見て欲しい風景の宝庫!
なかでも行田は古墳時代から戦国と江戸時代を経て近代まで一個所で時間旅行が出来る町!都心から一時間程度で行ける見どころ豊富な歴史の町!「彩の国」の行田を是非とも訪ねて頂きたい。
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(2024/12/4更新)
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