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竹原の町並みの特徴は、平入りと妻入りが混在しているところにあります。これが、町屋が密集して残る竹原にあって単調さを大きく崩すことになり、見飽きることのない景観を生み出す要因になっています。白漆喰や黒漆喰で塗り込められた壁、出格子や下見板張り、なまこ壁の建物もあり実に多彩です。
これらの建物は江戸中期から明治期にかけて建てられたものが大部分です。製塩業で繁栄した頃と重なることから、この町並みは製塩業がいかに竹原に富をもたらしたのかを示す証左でもあります。
1階に格子、2階は白漆喰が塗り込まれた土蔵造りの町屋が多く見られますが、ここで異彩を放っているのが竹鶴酒造です。黒漆喰で本瓦の葺かれた入母屋妻入り3棟が連続する貫禄ある土蔵造りの建物です。万治3(1660)年から製塩業を始め、享保18(1733)年より副業として酒造も始めました。NHK連続テレビ小説『マッサン』で有名になったニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝の生家でもあります。
竹鶴酒造のすぐ先には、松阪邸があります。製塩業を主軸に、薪や石炭の問屋、酒造・醸造業と多角経営を行っていた豪商です。建物は文政年間(1818〜1830)の建築ですが、明治12年に全面的な改造がなされて現在の形に至っています。
まずは外観。1階は一部に木彫を施した出格子が強い存在感を放ち、2階は白漆喰。曲線を用いてフキダシのようなモチーフの窓額縁を備えた菱格子の窓がかなりユニークです。さらにユニークなのは屋根です。弓状にうねっているのです。
解説では「『てり、むくり』をもった大屋根」と表現されるこの屋根、「てり」とは「反り」のことで、豪壮さを表現する技法になります。一方、「むくり」は「膨らみ」のことで低姿勢を意味。ゆえに町屋に多くみられます。しかし、併用することは稀。実は大屋根に曲線を用いた唐破風が採用されており、これが「『てり、むくり』をもった大屋根」を生み出しているのです。稀少な屋根は必見です。
また、部屋それぞれに異なった色の土壁が塗られ、座敷には天井や床柱に面皮柱を用いるなど、シンプルながらも意匠性を垣間見られるところも面白く町人の粋が窺えます。
松阪邸からすぐのところを山側に折れて石段を登ります。この先にあるのが西方寺です。石段の左右は山の斜面を削って高石垣とし、山門の左右が突き出します。砦の機能を有した寺と言えそうです。石段を登ると大きな一間社流造の本堂が現れます。しかし、こちらで有名なのは本堂ではなく、さらに高所にある舞台造りの楼閣です。
普明閣という名で、隆景が京都の清水寺を模して建てさせたものと伝わります。ところが、柱は朱色に塗られており、清水寺では象徴的な崖に柱と梁を組み合わせて設けた舞台は正方形で狭いです。とても清水寺を模したようには見えません。
本当に指示をしたのは、町を見晴らせる(監視できる)高楼の建設か、それとも防衛のための寺の石垣化だったのではあるまいか。舞台造りだったことから、話にこうした尾ひれがついたのではあるまいか。そんな想像も膨らみます。ともあれ、高楼からの眺めの良さは確か。ビルは少なく、屋根瓦の家が遠くまで続いており、やはり古い町なのだろうと感じる景色です。松阪邸の風変わりな屋根も見られるでしょう。
本通りからはやや離れますが、見ておきたい商家がもう一つあります。それが大正5(1916)年頃に建てられた森川邸です。大きさもさることながら、後世の改修が少なく大正当時の状態を留めている点でも貴重とされています。
間取りは北を上にしてちょうど「コ」の字型になっており、屋敷の南半分は来客用、北半分は生活スペースといった用途の分け方がされていたことが窺えます。玄関は東中央にあり、式台玄関。南側、和室が5連続する景色は圧巻で、その南は広大な庭園となっています。北縁部は土間が貫き、食堂や台所が隣接します。
土間には、竹原の塩田を説明するパネルも掲げられています。これによると、干拓事業によってつくられた畑地が低地のために塩気が強すぎて作物が育たず放置されていたらしく、これを播州赤穂の商人の助言で塩田にしたのが竹原塩田の始まりとのこと。“災い転じて福となす”これが竹原繁栄の正体だったのです。
いかがだったでしょうか。竹原にはこの他にも立派な商家が複数あります。これらは、製塩によって富を得た“浜旦那”と呼ばれた豪商たちの邸宅です。それぞれに格子の意匠等が異なり、外観だけでも町人が思い思いの邸宅を築いたことが分かります。
そして、豪商たちは酒造や醸造、呉服などの副業を行ったことで竹原の町人文化は一層華やかなものとなりました。また、こうした副業と同時に力を入れていったものが学問。竹原は江戸後期に頼山陽を輩出します。彼が著した『日本外史』は竹原の学問の一つの到達点とも言えるでしょう。町には頼山陽の祖父・惟清の旧宅や学問所だった照蓮寺も残ります。竹原の香り高き町人文化を拾い集めてみて下さい。きっと愉しいものとなるでしょう。
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