ウラジオストク観光におすすめ!“日本”を探しながらお散歩

ウラジオストク観光におすすめ!“日本”を探しながらお散歩

更新日:2017/07/03 17:53

ウラジオストクといっても、どうもイメージが沸かない。日本に暮らすたいていの人は、そういう反応を示すでしょう。ところが、ウラジオストクは歴史的にも、そして現在も非常に日本と関わりが深い港町なんです。そういうこともあり、ウラジオストクには日本と関わりのあるものがいっぱい見つけられるんです。
それではウラジオストクにある日本をさがす散歩にご案内しましょう!

街に出て、日本のドリンク自動販売機をさがしてみよう

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なんの変哲もない自動販売機の写真です。でも、「これはウラジオストクの自動販売機です」と言うと間違いなく驚かれることでしょう。しかも単なるディスプレイではなく、日本で飲んでいるものとまったく同じ商品、そして味も一緒の缶ジュースやミネラルウォーターなどを買うことができるんです。ただし、ロシアの通貨であるルーブルしか使えませんが・・・。

値段は日本よりも若干割高の設定です。どうやら日本のメーカーから定期的に商品が補充されているようです。日本製品はウラジオ市民の間でも人気らしく、料金は高めでもよく売れているとか。港の客船ターミナル、百貨店、大通りなどウラジオストクの街角をぶらっと散歩しているだけでも、あちこちで見かけることができるはずです。

ウラジオストクの道路は日本の中古自動車天国

ウラジオストクの道路は日本の中古自動車天国
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日本の生協は海を越えて、ロシアにも配達に来ているんだ・・・というわけではありません!ウラジオストクの道路は日本の中古車であふれています。このように日本語の書かれた中古車を目にすることは日常茶飯事。

なかには「返せ!北方領土」と書かれた、かつては日本の政治団体が使っていた街宣車に乗るロシア人を見かけることも。日本とロシアは北方領土(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)の所属をめぐって異なる見解を持ち、それが原因で戦後70年を過ぎても両国間に平和条約が結ばれていません。でも、ウラジオ市民にとってはそんなことはお構いなしのよう。「ここにある日本語の意味はご存知?」と尋ねると、「ダー(ロシア語のYES)!」と満面の笑顔で答えてくれます。

このように自家用車などは日本の中古車が多いのですが、ウラジオストクの路線バスにはハングル文字が踊っています。バスに関しては韓国車のお古を輸入しているようです。

浦塩日本人街の名残をとどめる建物に出会う

浦塩日本人街の名残をとどめる建物に出会う
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ウラジオストクなど沿海州がロシアの領土になったのは19世紀後半のことです。冬でも凍らない港を欲しがっていた当時のロシア帝国は、入り江に面した小さな漁村にウラジオストクという港湾都市を建設しました。

そのころから欧米や中国など世界各地から人々が流入し、ウラジオストクはやや混沌とした国際都市として発展を始めます。そのなかでも居留民の数が多かったのは、日本人でした。日本人街も形成されるようになり、寺院や銀行なども建設されます。日本人居留民は「浦塩」または「浦潮」とウラジオストクのことを親しみを込めて呼んでいました。

写真の左手にある建物は、かつての横浜正金銀行です。現在はアルセーニエフ記念沿海州総合博物館として利用されており、2階ではウラジオストクの歴史に関する豊富な資料が展示されています。日本人居留民の数が最も多かったのは、ロシア革命(1917年)直後に日本軍がウラジオストクなどを占領したシベリア出兵(1918〜22年)の時代です。横浜正金銀行はシベリア出兵が始まった1918年にそのウラジオ支店として開設されましたが、日本軍の撤退後に閉鎖されました。

その後、ソビエト連邦が成立し、その勢力がウラジオストクにおよんでくると国外退去する日本人居留民が急増。1932年までにはほとんどの日本人がウラジオストクから姿を消してしまいますが、銀行や商店など当時の建物はいまだ多く見ることができます。

シベリアに抑留された日本人が建てたスタジアム

シベリアに抑留された日本人が建てたスタジアム
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2018年、ロシアでサッカーのワールドカップが開催されます。残念ながらウラジオストクでは試合は行われませんが、海辺にディナモ・スタジアムという競技場を有しています。実はこのスタジアム、日本人が建てたものです。

太平洋戦争末期の1945年8月、旧満州(現・中国東北地方)や樺太(現サハリン)に侵攻したソ連軍によって多くの日本兵が捕虜となり、シベリアに抑留されました。シベリアに抑留された日本人は、過酷な状況の中でシベリア鉄道などの建設に従事させられました。多くの命が失われ、無事帰国できた人は多くありません。

そんな抑留日本人の一部は、ウラジオストクで働かされました。彼らが苦労して建設したのがこのディナモ・スタジアムであり、ホテル・ウラジオストクでした。日本人抑留者は1952年までに帰国を果たしていますが、異郷で亡くなった日本人の墓がウラジオストク市内や近郊にあるそうです。日本とロシア(旧ソ連)の不幸な歴史の足跡もまた、ウラジオストクには残されているのです。

ウラジオストクに足跡残した与謝野晶子の詩碑

ウラジオストクに足跡残した与謝野晶子の詩碑
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19世紀末、ロシア皇帝の命によりウラジオストクに東洋学院が設立されました。これは東洋学および東洋を研究する人材の教育機関で、ソ連時代に極東国立総合大学東洋学大学へと改組されます。太平洋戦争後の冷戦時代、軍港都市となったウラジオストクは日本との交流が途絶しますが、この大学での日本研究や日本語学習は続きます。

ソ連崩壊から3年後の1994年、極東国立大学(現・極東連邦大学)の分科大学である東洋大学の構内に、明治の文学者・与謝野晶子(1878〜1942年)の歌碑が、大学の関係者によって建てられました。日本研究のさかんな大学ならではの碑ですが、なぜ与謝野晶子なのでしょう?

1912年、与謝野晶子はパリに渡った夫・鉄幹のあとを追って福井県敦賀港から船に乗って単身ウラジオストク入りを果たしています。その後、シベリア鉄道に乗ってモスクワへ、さらに陸路パリへ向かい夫との再会を果たしています。「晶子や物に狂ふらん、燃ゆるわが火を抱きながら、天がけりゆく、西へゆく、巴里の君へ逢ひに行く」。ウラジオストクに足跡を残した晶子の詩「旅に立つ」が、日本語とロシア語でこの碑に刻まれています。

大学の構内には自由に入ることができ、すぐにこの碑を見つけることができるでしょう。遠くパリまで愛する人を求めて行った晶子の情熱、そして不幸な歴史を乗り越えて続くウラジオストクと日本の交流の歴史を、この詩碑から感じ取ることができます。

日本さがしには船でのウラジオストク入りがオススメ!

現在でこそ日本人にとってあまりなじみのないウラジオストク。しかし、その歴史やウラジオストク市民の生活には日本の影響が濃いように思われます。ウラジオストクと日本の関係を考える上で、欠かせないキーワードがあります。それは「船」です。

戦前に浦塩に渡った居留民たち、シベリア抑留から無事帰国を果たした人たち、そして街を走る中古車・・・。いずれも船が運んだものです。かつては敦賀、その後は横浜や伏木(富山県)から貨客船がウラジオストクへ向けて出港していきました。しかし現在は航空便が成田空港などから出ており、船を使う人もめっきり減っています。

現在、鳥取県の境港からDBSクルーズフェリーの「イースタンドリーム」が韓国の東海(トンヘ)経由でウラジオストクまでの船便を運航しています。2泊3日の船旅となりますが、与謝野晶子の足跡をたどるなどウラジオストクにある日本を求めるなら、旅情たっぷりの演出ができるはずです。

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