写真:菊池 模糊
地図を見る童謡「赤とんぼ」の作詩者として知られる三木露風は明治22年に龍野で生まれました。現在も生家が残されており、明治の風情が残された屋敷の内部を見学できます。ここで幼年期を過ごした露風ですが、両親が離婚したため祖父の家に引き取られました。したがって、この生家は露風の母への思いが随所に残されており、見学者を感動させる場所となっています。
木造平屋建て、8畳3間に玄関と続き部屋で構成されたシンプルな構造で、武家屋敷の流れを組んだ歴史的な建物です。屋根小屋組は丸太で煙により黒くすすけており、外壁は小舞竹土塗壁の上に漆喰塗りとなっています。できるだけ古い瓦や建具を再利用して維持改修がなされており、当時の面影がしっかりと残されています。
建物内部の部屋には、資料が沢山あり、露風が龍野に住んでいた10代までを中心として分かりやすく説明されています。特に幼児から中学校時代までの写真やエピソードが多く見られます。「ふるさとを思ふ」という原稿や「櫻の下」という詩集ノートは、必見です。露風は「私に詩思を与へ、私の少年時代にして尚且つ思索に耽らしめたのは、故郷の山川である」と語っており、少年時代を過ごした郷土が露風の原点であることが分かります。
この露風生家は、龍野地区の歴史的景観形成地区にあり、龍野城の真下にあることから幕藩時代は政治の中枢の場所であったと思われます。龍野の街なみの中心としてふさわしく、ここを起点として龍野散策をはじめると良いでしょう。
写真:菊池 模糊
地図を見る三木露風生家から西へ10分ほど歩いた龍野公園の入り口に、赤とんぼ歌碑と三木露風像があります。この経路には、「たつの市指定文化財・家老門」や「霞城館・矢野勘治記念館」などがあり、歴史的な雰囲気の横溢する街なみ散策を楽しめます。
「赤とんぼ」は日本を代表する童謡で「日本の歌百選」にも選出されています。この歌は、三木露風が大正10年(1921年)に作詩し、これに共鳴した山田耕筰が昭和2年(1927年)に曲をつけたものです。写真の歌碑の横に露風のレリーフと山田耕筰絶筆の歌碑五線譜があり、さらに右側には露風の銅像も立っています。日本人の心を表す「赤とんぼ」の詩を読んで、五線譜を見ながらメロディーを口ずさめば、誰しも望郷の思いにとらわれるのではないでしょうか。
なお、赤とんぼ歌碑は、たつの市白鷺山の「童謡の小径」にもあります。これは、同市が1984年に「童謡の里」宣言をして、全国からの応募に基づき上位8曲の歌碑と遊歩道を整備したものです。まさに三木露風の故郷が童謡による町おこしをした象徴と言えるでしょう。少し距離がありますが、時間に余裕のある方は、ぜひこの「童謡の小径」を歩いてみてください。
写真:菊池 模糊
地図を見る赤とんぼ歌碑を見学したら東側に戻り、龍野小学校への横道に入ると武家屋敷資料館があります。ここは龍野の武家屋敷の内部の様子が見られる貴重な場所です。
龍野は城下町として知られていますが、内部を見学できる場が少なかったため、国土交通省の街なみ環境整備事業により、この武家屋敷の保存と公開活用がされるようになったものです。建物自体を資料とする考え方で整備されており、特別な資料の展示はされていません。
この武家屋敷の主屋は、天保8年(1837年)ころに建築されたもので、木造平屋建中二階付本瓦葺、約140uの大きさです。決して大きな規模ではありませんが、式台のついた玄関から入り、控えの間から8畳の座敷に至る格式ある構成の武家屋敷です。およそ二人扶持の中流武士の住宅と考えられ、江戸時代の武家の生活を知ることのできる貴重な遺構です。
写真:菊池 模糊
地図を見る武家屋敷資料館を見学したら、さらに東へと歩き「うすくち龍野醤油資料館」に至ります。ここは昭和初期まで蔵人が使っていたこうじむろで、桶・樽などの醤油製造器具などが展示されています。
この付近には、寺院や醤油蔵煙突など龍野らしい情緒ある街なみが残っています。中でも如来寺には三木露風の歌碑と筆塚がありますので、ぜひ見学してみましょう。
龍野は、淡口=「うすくち」醤油の発祥の地で、江戸時代に京都の精進料理や懐石料理に用いられたことから関西風日本料理の調味料の王者となり、明治時代以降は大きな産業となりました。淡口醤油の代名詞と言える企業であるヒガシマル醤油は龍野醤油株式會社から発展したもので、現在も本社は龍野にあります。
昔の醤油蔵の原料処理場には煙突が必要でした。現在は使用されていませんが、醤油蔵のシンボル的存在として煙突を残している蔵元も見られます。龍野にもいくつか保存されており、写真の煙突はその代表的なものです。街なみを巡りながら、龍野の近代を支えた醤油醸造業の栄えた日々に思いを馳せてください。
写真:菊池 模糊
地図を見るうすくち龍野醤油資料館や如来寺を見た後は、北西に道をたどり、再び三木露風生家前に至り、最後はその北にある龍野城を見学します。城の横側にある駐車場には「龍野歴史文化資料館」もありますので、余裕があれば見学してください。
龍野城は、16世紀はじめに播磨の守護大名であった赤松政則の子の赤松村秀によって鶏籠山の上に築かれました。その後、豊臣秀吉の勢力下となり、蜂須賀氏などが置かれましたが、江戸時代になって一度、破却されました。寛文12年(1672年)に脇坂安政によって龍野城が再建され、この際、山麓にある陣屋形式の城となり霞城と呼ばれました。時代は太平の世で、幕府の政策もあり、城壁に囲まれた大きな邸宅といったもので十分だったのです。
脇坂氏は10代・200年にわたり龍野を治めましたが、明治維新の廃藩置県により龍野城は取り壊されました。現在の龍野城の建物は、昭和50年(1975年)から絵図に基づき順次再建されてきたもので、木造土壁造りで往時の姿を彷彿とさせるものです。
龍野城は、天守閣を持たず平屋の陣屋形式であることが特徴です。城の門や隅櫓は城郭的ですが、城壁内部の本丸御殿は城というより大きな屋敷という感じです。内部は12室ほどあり、中でも奥にある上段の間は見事なもので、ヒガシマル醤油株式会社の寄贈により、金泥引・金砂子打の豪華な障壁画があります。脇坂の殿様はここで政務をとったのかと思わせる雰囲気です(写真参照)。政庁や藩主の住まいとしては、天守閣よりはるかに合理的な構造で、江戸幕府の有力ブレーンとして活躍した脇坂氏の英知を伺わせます。
2016年7月現在、上記の三木露風生家、武家屋敷資料館、如来寺、龍野城は無料で見学でき、うすくち龍野醤油資料館も良心的な入場料です。城下町であるとともに童謡の里として観光ルートは整備されており、ゆっくり歩いても半日あれば余裕を持って散策できます。
関西方面からは日帰り観光も可能なので、ぜひ播磨の小京都のそぞろ歩きをお楽しみください。
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(2024/12/14更新)
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