写真:松縄 正彦
地図を見る親鸞聖人は、日本仏教最大の宗派である浄土真宗の宗祖として知られていますが、1207年、“承元の法難”(メモ欄参照)により、越後に流されてしまいます。当時、親鸞聖人は35歳でした。
親鸞聖人が流されたのは越後国の国府、現在の新潟県上越市です。昔は都から遠く離れた場所、例えば伊豆や佐渡などの離島、また九州、土佐や越後などの遠隔地が流刑地として選ばれていたのです。ちなみに京都から琵琶湖を北上し、越前・越中の山道を抜け、糸魚川周辺で船に乗ってこの地に流されたといわれます。
親鸞聖人が上陸された地は、直江津港に近い「居多ヶ浜」(写真)です。現在、この浜は、夏には海水浴場としてにぎわいますが、この上陸地のすぐ上の高台に聖人の木像が収められた”見真堂”や”親鸞聖人上陸の碑”が建てられ、碑の横のテラスから浜を一望できます。
漸くたどり着いた流刑の地、越後。聖人は北国の海をどんな気持ちで日々眺めていたのでしょうか?ちなみに聖人は「海」という言葉をよく使われ、後述の「教行信証」では70回以上もこの言葉が出て来るといわれます。まだ若かった時に見た越後の海、特に冬の荒々しい日本海が聖人の思索に与えた影響は大きかったはずです。
この高台の地には親鸞聖人がこの地に流された経緯や越後との関係を記した説明板がいくつか建てられています。参考になりますのでぜひお読みください。
写真:松縄 正彦
地図を見る居多ヶ浜に上陸された聖人が最初に訪れたのが、すぐ近くに位置する「居多神社」です(写真)。この神社境内には”片葉の葦”が多数茂っています。これは”親鸞聖人が歌を詠んで神前に供え、早くご赦免になるように願った所、一夜にして片葉になった”といういわくつきの植物で、親鸞聖人の”越後七不思議”の1つになっています。
ちなみにこの七不思議は、鮒、桜、梅や栗など植物や食物が関係しています。”珍しい動植物を親鸞聖人の奇端と結びつけた”のではないかといわれていますが、それだけ越後で浄土真宗が盛んに信仰された証ともいえるでしょう。
なお、参拝のおかげでしょうか、後述のように聖人は5年後にご赦免される事になります。
ところで、この神社は越後国の一之宮でした。この神社は非常に歴史が古く、神代に創建という説もあります。御祭神は”大国主命”、”奴奈川姫命”、”建御名方命”です。奴奈川姫命は翡翠(ヒスイ)と関係する神様で大国主命の奥方、建御名方命は大国主命と奴奈川姫命の御子神になります。この関係でしょうか、神社境内には末社として雁田神社があり、子宝を授けてくれる神様”高皇産霊神”と”神皇産霊神”が祀られています。居多神社で良縁に恵まれた方々がここで子宝も祈願されているのです。
親鸞聖人は国府の代官に預けられ、近くの五智国分寺辺りに庵を建て、役人が監視するなかで生活(自活)したといわれます。2年ほどこの地におられ、後に新潟市の方に移られ、越後各地で説法をされました。また越後出身の恵信尼と結婚され家庭を持たれましたが、恵信尼との間には4男3女、7人もの子供を授かったといわれています(結婚の時期等については諸説あります)が、これもこの神社のご利益なのかもしれません。
写真:松縄 正彦
地図を見る海辺から少し内陸に行ってみましょう。上越市の高田地区には親鸞聖人ゆかりの寺院があります。
親鸞聖人は1211年にはご赦免され、晴れて流罪から解き放たれたのですが、京都には戻らず、家族とともに常陸の国(現在の笠間市)に移り、布教活動をされます。ここで浄土真宗の根本聖典「教行信証」(の草稿本)を完成され、その喜びをお住まいの名前に表現されました。それが歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して「浄興寺」です。ちなみに京都本願寺創建の48年前の事です。
このお寺は後に信濃に移りますが、戦国時代、川中島の戦いで炎上したため、上杉謙信公の招きで春日山城下に移り、その後、現在の地に至ったのです。越後と親鸞聖人のつながりが、謙信公の時代にも生き続けていた事になりますが、”毘沙門天の生まれ変わり”と自称した謙信公ならではの計らいだったのかもしれません。
さてこのような由来をもつ浄興寺ですが、この寺には”親鸞聖人の御頂骨”があるのです。
まず山門をくぐった正面にある本堂にご注目ください。この本堂は国の重要文化財になっています。新潟県内では最大かつ最古の真宗建築で、いたる所に彫刻がなされ、東西の本願寺と並ぶ高い格式の寺である事を示しています。本堂の横にあるのが「親鸞聖人本廟」(写真)で、ここに”親鸞聖人の御頂骨”が収められています。また三世以降の歴代本願寺門主の御骨も分骨されており、「教行信証」の件と相俟って、ここは信徒にとっては非常にありがたい場所なのです。
また浄興寺のある高田寺町は全国でも有数のお寺の多い町です。現在でも64寺あるといわれていますが、このような土地柄になったのも親鸞聖人と無縁ではありません。歴史と信仰、この2つがここで結びついています。
親鸞聖人のゆかりの地を辿ってゆくと、神話の世界から現代まで、また出雲から関東まで、時間と空間が入り混じった歴史世界に入り込んでしまいます。
哲学者”梅原猛”さんは、越後での厳しい生活が親鸞の思索を深めた事で「教行信証」の独自の教説を創出できた、また(神話も残る)越後だからこそ、このような宗教的な霊性を得る事ができたと指摘されています。このように越後は聖人の生きざまを知るには欠かせない原点なのです。
なお親鸞聖人は家族と1235年頃には京都に戻りますが、妻の恵信尼はその後、再び越後(板倉)に戻り、ここで亡くなります。現在、上越市板倉には「ゑしんの里記念館」があり、妻から見た親鸞聖人の実際の姿や生活の様子をここで知る事もできます。こちらにもぜひ訪れてください。
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(2024/11/7更新)
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