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写真:政田 マリ
地図を見る平安時代中期、寛朝僧正(かんちょうそうじょう)というお坊さんが広沢池のほとりにあった山荘を改め、遍照寺を創建しました。背後には嵯峨富士と呼ばれる端麗な姿の朝原山(遍照寺山)がそびえ、その姿を映す広沢池(写真)はとても風光明媚な場所でした。池の周りには多宝塔や釣殿などが建ち、人工で作られた観音島には十一面観音像が祀られ、そのお姿は金色にキラキラ輝いていたといいます。
しかし寛朝僧正が亡くなった後、次第に寺は衰退していきます。復興衰退を繰り返し、現在遍照寺は広沢池から南へ500mほどのところに移り、現在も観音島に祀られていたとされる十一面観音立像が祀られています。膝あたりの衣の翻しが大小の波を打ち、内側に彫り込み(内刳り)をしないという平安時代中期の特徴を持つ一木造りの観音さまです。
お寺の衰退でいつも池を見守っていた金色の観音さまがいなくなった広沢池に、もう一度観音さまがいらっしゃるのは明治時代のことです。
写真:政田 マリ
地図を見る明治時代、失っていた広沢池の観音島を再造設した時、現在右京区仁和寺の隣にある五智山蓮華寺に以前祀られていた千手観音石像(写真)がここに移されました。同じ観音さまでも以前の十一面観音とは姿が少し違い、手を多く持つ千手観音に変わりましたが、同じように池を望む形で安置されています。
この石仏の願主は樋口平太夫(ひぐちひょうたゆう)・常信。豊臣家の家臣で、大坂城落城後罪を免れ江戸にて材木商を営み成功。しかし、同じように大坂の陣で罪を問われ殺されてしまった仲間のことが忘れられず、その冥福を祈る遍路の旅に出ます。1635年には京都に入り、蓮華寺に立ち寄った時、荒廃してしまった境内を見て再興を決め、6年かけて多数の石仏を作ったといいます。現在も蓮華寺にはその時に作られた石仏が境内に多数安置されています。
その中の一体だった千手観音が今広大な広沢池を静かに見守っている。その優しいお顔にとても癒されます。しかし、気になるのはそのお顔斜め下にカニさんのように差し出された脇手!千手観音にしては少し数が少ないような・・・。
写真:政田 マリ
地図を見る通常千手観音は真ん中の合掌している手を合わせて42本で表されることが多いのですが、こちらの千手観音は合掌する手、托鉢を持つ手(写真真ん中下あたり)、両サイドに4本×3列12本ずつの脇手があり、全部で28本です。木造と違い石仏はなかなか細かいところまで表現できないので数を少なくせざるを得なかったのかと思いますが、ちゃんとその姿を長持ちさせるために考えられているのです。
合掌と托鉢の手はあまり厚みを持たせず胸に密着させ、脇手は短く持物を持たず差し出すようにコンパクトにまとめることにより欠けを防いでいます。残念ながら指先の多くは失われていますが、長い間風雨にさらされることを考えてその姿ができるだけ変わってしまわないようデザインしたのでしょうか。さらに上の一段3本ずつはストップ!のような指を上にする形に変えていたり、足元の衣紋を深く刻むなど変化を持たせているので、シンプルに感じず、その存在が遠くからでも感じられるように工夫されているのです。
大きさは1m50cm程度とそんなに大きくはありませんが、存在感抜群の千手観音石像。正面から見るとカニのようににょきっと出た脇手が愛らしく、横から見ると手は優しく差し出され腰に厚みがありどーんと構えている。のどかな嵯峨野の里にピッタリなその優しいお顔を目の前にすると、どんなに心が荒れていてもスーッと波が静まり返るように心が癒される事間違いありません。まさに大きな愛で私たちを迎えてくれる千手観音石像、ぜひ皆さんも会いに行ってみてください!
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