日本の海上戦力と生きてきた異彩を放つ港町〜広島・呉〜

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日本の海上戦力と生きてきた異彩を放つ港町〜広島・呉〜

日本の海上戦力と生きてきた異彩を放つ港町〜広島・呉〜

更新日:2016/07/15 16:40

小谷 結城のプロフィール写真 小谷 結城 国内旅行業務取扱管理者、京都検定2級、温泉ソムリエ、日本城郭検定2級、国内旅行地理検定2級

呉の街が造られたのは明治期。山口県から和歌山県、そして九州の福岡県から宮崎県が囲む瀬戸内海・太平洋側、四国全域を第2海軍区とした呉鎮守府が置かれたのが契機でした。対岸の島には海軍学校も移築され、日本海軍の発展とともに都市を繁栄させてきたのです。

戦後は、呉鎮守府とおおよそ同様の範囲を警備区に定めた海上自衛隊呉地方隊の本拠地となって今に至ります。今回は海上戦力と軌を一にしてきた街・呉のご紹介です。

戦艦大和の巨大模型!「大和ミュージアム」

戦艦大和の巨大模型!「大和ミュージアム」

写真:小谷 結城

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前述した通り、呉は海軍・海上自衛隊とともに歩んできたと言っても過言ではない都市です。ゆえに海上自衛隊にまつわる施設が多く、海軍の遺跡も多数あります。しかし、今回は呉で特筆すべき3施設を紹介したいと思います。まずは、大和ミュージアムになります。

大和ミュージアムの象徴は実物の10分の1スケールに再現された戦艦「大和」です。“史上最大の戦艦”として名高い「大和」の全長は263メートル。「島のようだ」などと言われたその巨大な姿はきれいに逓減され、均整の美を持っています。これを忠実に再現しており、形状の美しさをここでも実感できます。

「大和」の主砲は18インチ砲です。16インチ砲を搭載した戦艦が世界で7隻あり、これらが世界最強と言われていた当時、18インチ砲は世界で唯一無二の威力を誇りました。また、戦艦の集中防御区画はこの18インチ砲の射撃が直撃しても耐えられるように作られていたため、そこに潜水艦の魚雷を受けても乗組員は気付かないほどだったそうです。最強の戦艦をじっくりご覧下さい。

呉の街の成り立ちも知ることができます

呉の街の成り立ちも知ることができます

写真:小谷 結城

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「大和ミュージアム」、正式名称は「呉市海事歴史科学館」と呼びます。したがって「大和」だけではありません。原寸大の高性能戦闘機で知られる「零戦」、魚雷「回天」の展示もあります。一方、呉の歴史も伝えており、こちらも面白いです。

呉が選ばれた理由は、内海に奥深い立地が防御に適し、背後三方を山に囲まれた平地は施設建設、市街地造成、鉄道敷設に充分な広さを有していたからと言われます。そして、静かな湾内が艦艇の停泊に適し、工業用水・飲料水となる良質な軟水にも恵まれていました。呉は海軍基地としてこれ以上にない適地でした。

呉鎮守府は造船・兵器製造を特徴とする海軍区の本拠として昭和20(1945)年までその役割を果たすことになります。そして、呉鎮守府の重要性が高まるほどに呉の発展も進み、広島市に先駆けて路面電車が開業し、戦中には人口40万人を突破して国内有数の都市に成長。執拗に空襲を受け廃墟化しますが、これまでの呉の土壌が働いて海自の本拠として再生してゆくのです。

潜水艦に潜入できる「てつのくじら館」

潜水艦に潜入できる「てつのくじら館」

写真:小谷 結城

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続いてはこちら、「てつのくじら館」です。正式名称は「海上自衛隊呉史料館」です。この建物の特徴は、なんといっても正面に静態保存されている巨大な潜水艦です。「あきしお」という潜水艦で全長76.2メートル、深さ10.2メートル。平成16(2004)年に除籍なので、近年まで任務を遂行していた実物になります。平成18(2006)年に国内最大のクレーン船で陸揚げされ、ここまで道路を運ばれてきました。

「あきしお」へは館内から入ることができます。狭いベッドや操舵装置のある発令所など、なかなか入る機会のない潜水艦の内部は興味深いものがあります。

あまり知られていない戦後の掃海活動

あまり知られていない戦後の掃海活動

写真:小谷 結城

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戦後の呉、ひいては瀬戸内海に大きな課題がありました。それが機雷の除去です。日本の各都市に空襲を行い、激甚な被害を与えたことで知られるアメリカ軍のB29爆撃機は、主要な海峡や港湾に機雷も落として海上封鎖を行っていたのです。終戦直後、国内の沿岸に残された機雷は1万個。そのうちの約7000個が瀬戸内海にありました。

終戦した昭和20(1945)年に急ピッチで各地の機雷の除去を行い一定の成果を上げたものの、瀬戸内海では難航。ほぼ1年を掛けて翌昭和21年に瀬戸内海一貫航路の掃海が完了しました。

なお、掃海活動は秘匿され、掃海による殉職者も大きく報道されることはありませんでした。これは機雷が明治40(1907)年のハーグ第8条約に大きく違反していたからです。加えて、戦後から強い軍人嫌悪の国民感情が急速に生まれていました。掃海に従事したのは旧日本海軍です。彼らは知られることのない死の危険をも伴うほどの努力に反し、非常に肩身の狭い思いをしました。

それでも、海軍と深い関わりを続けてきた呉市内では掃海の努力が報道され、温かく見守られました。掃海従事者にとって呉は心の拠り所にもなったのではないでしょうか。ここでは、掃海具の紹介とともに掃海の努力も語られています。

イギリスへのリスペクトがここに?「入船山記念館」

イギリスへのリスペクトがここに?「入船山記念館」

写真:小谷 結城

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最後は貴重な洋風建築です。かつて呉鎮守府司令長官官舎として利用された建物が記念館として残されています。初代は明治38(1905)年の芸予地震によって倒壊し、同年に建て替えられた2代目が現在のものになります。

急勾配の屋根には雄勝石のスレートが葺かれ、白漆喰の壁に黒く塗られたハーフティンバー。右に背の高い縦長の窓、左にベイウインドウ、中央に正方形3連のドーマーウインドウがあり左右非対称。英国建築様式風のデザインになっています。日本に海軍のイロハを教えたイギリスへのリスペクトが込められているのでしょう。

館内は金唐紙の豪華な空間です。各部屋に異なった色、異なったデザインの金唐紙が壁を絢爛に飾っています。家具調度品はイギリスで活躍したデザイナーの作品。やはりここにもイギリスがあります。玄関のドアを見ると、海軍錨とともに桜のモチーフが見られます。日本人の建物である証も忘れてはいません。

呉のような街の歴史を持つ都市は他にありません

いかがだったでしょうか。呉は日本海軍によって都市計画され、海軍の工廠の発展や戦艦「大和」建設にともなって街の姿も変わっていきました。戦前の造船技術は現在にも引き継がれ、日本海軍の使用していた港は現在、海上自衛隊が使用。海軍から海自へと引き継がれている建物もあります。呉のような街の歴史を持つ都市は他にありません。

ご紹介した3施設はいずれもJR呉駅より徒歩圏内にあります。これらだけでも呉に訪れた感慨を持つことができるでしょう。いずれも呉ならではのスポット、必見です。

掲載内容は執筆時点のものです。

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