夏にオススメ知られざる京都「歴史の裏」を巡る旅!東山周辺5選

夏にオススメ知られざる京都「歴史の裏」を巡る旅!東山周辺5選

更新日:2016/08/01 09:11

古都の U助のプロフィール写真 古都の U助 ブロガー
時代毎に様々な歴史の舞台となってきた京の町。そしてそれらの歴史には表があれば、当然裏もあるわけです。暑い夏にはちょっぴり背筋が冷たくなるような、京都の裏の顔、裏の歴史をぜひその目で確かめに行ってみませんか?
今回は祇園や、古くは葬送地とされた鳥辺野に近く、あの世とこの世の交わる場所とされる六道の辻など、東山周辺の異世界感いっぱいのスポットや、歴史の悲哀を伝える場所を紹介します。

祇園の繁華街にある「崇徳天皇廟」

祇園の繁華街にある「崇徳天皇廟」

写真:古都の U助

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第75代崇徳天皇は、鳥羽天皇の第一皇子(実の子ではなかったという説も)として、鳥羽天皇の中宮・待賢門院との間に生まれました。父・鳥羽天皇から冷遇され政治の表舞台から遠ざけられた崇徳帝は、藤原頼長と手を組み、源為義、平忠正らの武士を集めて保元の乱を起こすも、後白河天皇側の夜襲に遭いわずか一日で惨敗。捕らえられた崇徳上皇は讃岐の国に流され、罪人として出家も許されず、憤怒のうちに亡くなったとされています。

その後都では天変地異が相次ぎ崇徳帝の祟りだと噂され、いくつかのお堂や社が設けられましたが、今ではこちらのみが残ります。崇徳天皇廟のある場所は祇園甲部歌舞練場の裏手(東側)です。男性なら誰しも惹かれるであろう場所の1つ、祇園の花街の真ん中にある、というのがせめてもの慰めでしょうか。

花街に近い縁切りの地「安井金比羅宮」

花街に近い縁切りの地「安井金比羅宮」

写真:古都の U助

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安井金比羅宮は「崇徳天皇」、「源頼政」、「大物主神」を祭神としています。主祭神の「崇徳天皇」は1156年、保元の乱に敗れ讃岐の国へ流罪となりましたが、讃岐の金比羅宮で一切の欲を絶って参籠されたことからこちらは「悪縁を切り、良縁を結ぶ」というご利益が言われています。

写真の縁切り縁結び碑(いし)は、高さ1.5メートル、幅3メートル程の中央に穴が開いた巨石で、その穴には神様のパワーが集まるとされています。お参りの仕方は碑(いし)そばの台に用意された形代(身代わりのおふだ)に願い事を書き、賽銭箱に百円程度のお志を納めます。
そして願い事を念じながら最初は表から裏へ、後に裏から表へと穴をくぐり、最後に好きな場所へ形代を貼って帰ります。

安井金比羅宮は参拝自体は終日可能で、祇園の繁華街に近いこともあり日没後も参拝する人の姿を見かけます。形代でワッサワサになっている「縁切り縁結び碑(いし)」は夜はもう何ともいえない雰囲気です。
ただし、こちらは決して呪いの場ではありません。
良縁を結ぶ為に悪縁を切るのが目的ですので、間違えると本当に恐ろしいです。ご注意下さい。

冥土に響き渡る鐘「六道珍皇寺」

冥土に響き渡る鐘「六道珍皇寺」

写真:古都の U助

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「六道珍皇寺」は弘法大師の師にあたる慶俊僧都によって延暦年間に開創された寺院です。
嵯峨天皇につかえ、平安初期に活躍した小野篁ゆかりの場所としても名高く、この六道珍皇寺がある場所は、古くは葬送地であった鳥辺野に近い為あの世とこの世の境界線と伝わっています。小野篁卿は昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔大王に仕えたという不思議な伝説があり、その行き来には六道珍皇寺の井戸を使用したそうです。

また、境内にある鐘の音は古くから十萬億土の冥土にまで届くと信じられ、毎年盂蘭盆には「迎え鐘」といって先祖の霊を迎えるため多くの参拝者が鐘を撞きにきます。鐘楼の隣には閻魔堂があり、閻魔大王像と、小野篁像も合祀しています。

普段は夕方16時までの参拝ですが8月7日〜8月10日の盂蘭盆には「六道参り」といって夜間拝観も可能です。夜の六道の辻は異世界ワールドたっぷりでそちらもおススメです。

みなとや幽霊子育飴本舗

みなとや幽霊子育飴本舗

写真:古都の U助

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「みなとや幽霊子育飴本舗」はおよそ450年もの歴史を持つ、日本で最も古いといわれる飴屋さん。こちらではなんと幽霊が我が子の為に買いに来た、という飴が販売されています。
こちらに伝わっているお話は、お腹に子を宿しながらも亡くなった女性が、死後墓の中で赤ん坊を産み、子供に与える為の飴を幽霊となって買いに来たというもの。生まれた子はその後立本寺の僧となり、68歳まで長生きしたといわれています。

飴は麦芽で出来ており、べっこう飴のような味わいです。また大きな飴を割って販売しており、形が不揃いなところも素朴で素敵な味わいとなっています。

お店のある場所は先に紹介した「六道珍皇寺」からわずかに西に行ったところです。また、少し南に行くと「六波羅密寺」等の見所があります。

養源院「血天井」

養源院「血天井」

写真:古都の U助

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養源院は文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)によって父・浅井長政らの供養のため、秀吉に願って創建された寺院です。俵屋宗達による杉戸に描かれた唐獅子や白象、鴬張りの廊下など見所は多いですが、思わず背筋がヒヤッとするのは伏見城から移されたという「血天井」です。

伏見城では1600年の関が原の合戦の際、その前哨戦として「伏見城の戦い」があり、石田三成率いる数万の大軍に攻められた鳥居元忠ら多くの兵が自刃。関が原の合戦の戦後処理が済むまで遺体は放置され、床に血が染み付いて取れなくなってしまったといいます。

養源院は1619年火災に遭いましたが、豊臣家所縁の寺を表立って再建するわけにもいかず、淀殿の妹に当たる崇源院(江)によって徳川の兵を供養する為、血天井のある寺として再興されました。伏見城の床板は養源院の他にも大原の「宝泉院」、鷹ヶ峰の「源光庵」などにも現存し、今も血天井として大切に供養されています。

まだまだいっぱいあります。

京都の裏名所的な場所、東山周辺は特にたくさんあり、奥深い魅力が味わえます。
暑さ厳しい時期ですから、ちょっとだけ怖いもの見たさ、というのもたまには良いのではないでしょうか。

掲載内容は執筆時点のものです。 2015/08/11−2016/07/22 訪問

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