写真:いなもと かおり
地図を見るJR福山駅のホームに降り立つと、目の前に現れる大迫力の石垣や天守。線路の横にそびえ立つ城を写真に収めようと、多くの観光客がカメラを向けています。
1622年に水野氏が完成させた福山城。その後、阿部氏10代の居城となります。外様大名をはじめとする西国大名の抑えとして築城された福山城は、天守の他に7基の三重櫓と二重の堀で守られた、往時の最高建築水準を誇る城郭でした。1931年には、天守建築の最終完成系として高く評価され、旧国宝にも指定されています。
天守は、残念ながら第二次世界大戦の空襲で焼失してしまいましたが、五重(5つの屋根)の構造を有していました。大砲の射程となっていた北側は鉄板張で覆われており、これは国内唯一の事例です。現在、天守内は博物館になっておりますので、福山の歴史を覗きに訪れてみてください。
写真:いなもと かおり
地図を見る近くで見上げると、さらに石垣の高さに圧倒されます。隅部は「算木積み」といい、長短の石が交互に重ねられた技法です。関ヶ原の戦い(1600年)以降に発展し、石垣の強度を増します。
また、石垣をよく見ると、いくつかの石に「○」や「□」などの文字が刻まれているのが確認できます。これは「刻印」といって、築城工事をしていた約400年前の担当者が刻んだ印です。理由はふたつ。自分の担当区間を記すためとも、苦労して運んだ石が盗まれないようにするためともいわれています。
刻印石は、福山城のみならず全国各地の城でも見つけることができるので、城巡りを楽しむポイントとして、頭の片隅に入れておきましょう。
写真:いなもと かおり
地図を見るほとんどの建物は空襲で焼失してしまいましたが、伏見櫓は奇跡的に残り、国の重要文化財に指定されています。重厚感のある造りは、望楼型と呼ばれる古風な建築遺構です。
また、城はしばしばリサイクルされるもの。廃城となった城の材木を再利用して築城することがよくあります。1954年の修理の際、伏見櫓の二階の梁に「松ノ丸東やくら」と書かれた墨書を発見。この記録から、もともとは伏見城の松ノ丸にあった櫓だったことが判明しています。
ちなみに、伏見櫓は文化の日のみ一般公開されておりますので、この特別な日に合わせて訪城するのもいいかもしれませんね。
写真:いなもと かおり
地図を見る石垣に張り出した懸造の建物。実は、お風呂場です。殿様は天守に住んでいたのではなく、横にある本丸御殿で生活をしながら政務も行っていました。この御湯殿は本丸御殿と繋がっていたとされています。
お風呂といえば、湯の張る浴槽を想像すると思われますが、ミストサウナのような蒸し風呂だったようです。さらには座敷の展望スペースもあったのだとか。贅沢で羨ましい空間ですね。
御湯殿も戦時に焼失してしまい、現在の御湯殿は戦後に再建されたものです。
写真:いなもと かおり
地図を見る伏見櫓と同じく、現存で国の重要文化財に指定されている筋金(すじがね)御門。伏見櫓と繋がっており、内枡形を形成しています。枡形とは、周囲を囲まれ侵入してくる敵兵を一網打尽に撃破するトラップ。門や壁に空いた穴からは鉄砲や弓が飛び出してきて、こちらへ一斉射撃を喰らわせるのです。目を閉じて想像してみてください。400年前にタイムスリップしたあなたは、果たして城内からの攻撃に耐えられるのでしょうか? こんな妄想をプラスすると城巡りは何倍も楽しくなります。
駅スグにあるアスセス抜群の観光スポット、福山城。冒頭で述べたように、JR福山駅は福山城跡の中にあります。現在、福山城博物館のある広場は、当時の本丸をはじめとする中心部分のみ。本来の大きさは、駅構内もすっぽり入るほど大きな城郭だったのです。
福山城を巡る際は、福山駅のホームから見渡す絶好ビューショットを撮り忘れないように。あなたも、ホームからも見える白亜の天守を訪ねにでかけてみませんか?
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この記事を書いたナビゲーター
いなもと かおり
年間120城をめぐる城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。小学生の時に古墳に目覚め、歴史の道へ。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は700ほど。日本城郭検定1級、国…
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