写真:乾口 達司
地図を見る本丸の西方、石山と呼ばれた地にはじめて城塞が構えられたのは、南北朝の動乱期であるとされます。戦国時代末期、備前国に覇をとなえた宇喜多直家は、石山をみずからの居城に定めます。直家の子・秀家は、豊臣秀吉の指導のもと、本丸を新たに現在の地に構築。本丸の設けられた地が「岡山」と呼ばれていたことから、以後、岡山城と呼ばれることとなります。岡山県の名の由来が、こんなところにあったのですね。
築城に際して、本丸東側の防御をかためるため、秀家は旭川を本丸に沿うように付け替え、天然の掘割としました。城郭の増改築は、秀家の追放後、国主となった小早川秀秋や、秀秋の死後、岡山藩主となった池田忠継に受け継がれ、忠継の後をついだ忠雄の時代に完成します。現在、私たちが目にする本丸周辺の城郭はこの時代のものですが、天守閣に沿って流れる大河・旭川が、本丸を守るために人為的に付け替えられたというエピソードからは、当時の工事がいかに大規模なものであったかがうかがえます。
写真:乾口 達司
地図を見る明治時代に入ると、不要となった建物は、次々に解体されます。堀の多くも埋め立てられ、城のシンボルであった天守閣も、昭和20年6月29日の岡山大空襲によって、消失してしまいます。現在の天守閣は昭和41年に再建されたものですが、かつての天守閣を忠実に再現していることもあり、創建当時の岡山城が、どのようなものであったかを知ることができます。
写真をご覧ください。入母屋造の基部の上に、3層から成る高楼が設けられているのが、おわかりになるでしょう。これは「望楼型」と呼ばれる様式で、城郭に天守閣が設けられるようになった初期の様式を伝えています。左側には、白壁の建物が連結していますよね。これは「塩蔵」と呼ばれる、天守閣とは別の櫓なのです。このように、櫓と天守閣とが、直接、連結している形式は「複合式天守」と呼ばれており、犬山城や松江城にも見ることができます。外壁の下見板が黒塗りであることから、岡山城は、その羽根の色にちなみ、「烏城」(うじょう)とも呼ばれていました。
写真:乾口 達司
地図を見る岡山城を訪れたら、天守閣の内部にも入ってみましょう。館内のエレベーターで上層まであがると、かつて城下町として整備された岡山の市街地を一望することができます。写真は天守閣から北東方向を撮影したもの。本丸と鉄橋で結ばれた旭川の対岸は、日本三名園の一つ・後楽園です。岡山城は後楽園とセットで訪れることをお勧めします。
写真:乾口 達司
地図を見る藩主の公邸および藩庁に当たる「表書院」の跡地を散策すると、地面より一段低くなったところに、写真のような石垣を見ることができます。これは平成5年に発見された石垣で、宇喜多秀家の時代に作られたものであると考えられています。石垣の先端が、するどく尖っていることに注目してください。ここまで尖った石垣は、全国的に珍しいといわれています。
写真:乾口 達司
地図を見る表書院の北側には、月見櫓も残されています。本丸内で、唯一、明治時代以降の解体・戦災をまぬがれた建物で、現在、国の重要文化財に指定されています。
岡山城が、宇喜多・小早川・池田氏というそれぞれの大名によって、長年にわたり、整備されてきたことが、おわかりになったのではないでしょうか。本丸には、ほかにも、天守閣への入口をかためた不明門や天守閣を支えた礎石群などを見ることができます。岡山城を訪れたら、岡山城の歴史もあわせて振り返りながら、天守閣とそれをとりかこむ城郭の見事さを実感してみてください。
入場料:天守閣のみ有料(通常300円/特別展・展示替えの時期は変動)
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(2023/11/30更新)
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